ジャニーズJr. 一覧 (関東組、1970年代生まれ)
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生年順 & 各五十音順
1970年生まれ
- 井坂伸一 (4月6日生。東京都出身。O型。好きな女性タレントは小泉今日子)
- 梅田貴裕 (京都市から通い)
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血液型:A型。 京都府立洛北高校卒業。 ジャニーズ退所後に、北公次のビデオ『光GENJIへ』(1989年9月、パワースポーツ企画販売)に元Jr.として出演。
その後、川崎市に転居し、2011年2月14日にWEB制作会社「株式会社 エクスプロード」を台東区浅草橋に設立 (後に西新宿に移転)。 - 大沼雄一郎
(中央が大沼、左は赤坂武彦、右は桑名兼司)
早生まれ。 世田谷区生まれ、千葉市育ち。A型。 兄弟は5歳上と2歳上に姉が2人。 自ら応募し、中学2年生だった1983年にジャニーズに入所。 『ロッテ 歌のアルバムNOW』(1986年6月1日 - 1987年9月27日、TBS)などに出演した。 1987年に退所。 Jr.時代は佐藤寛之や山崎正人らと仲が良かった。
後にビー・エム・ダブリュー株式会社の自動車「MINI」の正規ディーラーである株式会社Nakamitsu Cars(千葉県)に入社。外車営業販売の経験を積んだ後、同社の取締役、および営業責任者に就任した。
延べ20年のディーラー勤務を経て独立を果たし、輸入中古車販売を主にする会社「株式会社プレミアム」を、2012年11月15日に千葉市中央区にて設立。 翌2013年1月11日に店舗をオープンした。
2015年、平本淳也が司会を務めるバラエティ番組『学園天国24時』(チバテレビ)に、「バック転のできる車屋」というキャッチフレーズで出演した。 - 柏木哲也 (神戸市から通い)
(2枚ともJr.時代の写真。1枚目はステージ後方の左側で両手を振っている人物が柏木)
1970年12月29日生まれ。兵庫県神戸市出身。O型。 極真空手三段。 柔道三段。
中学2年生だった1984年、得意だったバック転やバック宙をして遊んでいる様子を同級生に写真に撮られ、ジャニーズ事務所に応募される。 しばらくしてジャニー喜多川から電話があり、柏木自身はジャニーズ自体も知らない状態だったが、「憧れの東京に行ける」という理由で上京した。 当時の柏木は典型的なヤンキーで、ソリコミの入った坊主頭に、中ランとボンタンという服装で東京に向かったが、ジャニーの審査に合格してジャニーズJr.となった。 柏木はヤンキーで腕っぷしも強かったため、関西圏の後輩Jr.たちからはいつも恐れられていた。
Jr.時代に仲が良かったメンバーは、同じ関西勢だった矢本俊仁、有染雄一。
また、柏木の親戚のおばさんが芸能関係の仕事をしており、メリー喜多川や大屋政子とは昔から親友であったため、柏木がジャニーズに入所してから1年後、神戸で行われた少年隊のコンサートをおばさんと観に行った際、会場に来ていたメリーと対面し、柏木が既にJr.であることを知らないメリーから「うちの事務所に来なさい」とスカウトされてしまう一幕もあった。 その日以来、メリーからは贔屓にされ、神戸から東京までレッスンに通う往復の交通費ばかりか、上京している間の小遣いまでメリーが出してくれるようになった。 なお、柏木はジャニーズ事務所の合宿所の浴室でジャニー喜多川からの性加害に遭ってからは、合宿所に行っても宿泊はせず、神戸から横浜に転校した友人の家に泊まるようにしていた。
しかし1989年、合宿所でたまたま昼寝をしていたところ、またジャニーから性加害されそうになる。 その際、極真空手や柔道をやっていた影響から反射的にジャニーを突き飛ばす形になってしまい、「You出てけっ! 帰れっ!」と言われて追い出され、これを機に解雇された。
なお、1988年~1989年頃にはジャニー喜多川から「平家派に入らない?」と誘われたが、柏木はグループ入りやデビューには全く興味が無く、ただのジャニーズJr.という立ち位置が好きだったため、参加を断った。 メリーの親友である親戚のおばさんにも、ジャニーの性加害のことは伝えなかった。 但し性加害の後遺症、トラウマとして、高齢男性と接すると瞬間的にジャニーを思い出すことがあり、一歩引いたり避けたりするようになった他、温泉や銭湯にも行けなくなり、それがたとえ会社や友人との旅行中であったとしても、一緒に入浴することだけは絶対に出来なくなってしまった。
ジャニーズを退所後、Jr.時代の友人・矢本俊仁に電話をしてみたところ、ジャニー喜多川からの深刻な性加害に遭い続けて苦しみ抜いた末、心を病んでわずか18歳の若さで飛び降り自殺していたことを矢本の母親から知らされ、大きなショックを受ける。 矢本の無念を晴らしてあげたい思いから、北公次が当時展開していたジャニーズ事務所への糾弾活動に参加。 アイドルグループ「SHADOW」の名付け親となったのも柏木だった。 1989年9月発売の北公次のビデオ『光GENJIへ』にも、元Jr.として出演した。 - 川上康明
1970年2月21日生まれ。練馬区出身。B型。
連続ドラマ『新・熱中時代宣言』(1986年4月5日 - 8月16日、日本テレビ)に、大沢樹生、内海光司、江端郁世と共に、大田区立三本木中学校3年6組の生徒役でレギュラー出演した。 - 桑名兼司
1970年7月20日生まれ。東京都練馬区南田中出身。O型。 先にジャニーズ入りしていた友人に誘われてJr.になった。
『ロッテ 歌のアルバムNOW』(1986年6月1日 - 1987年9月27日、TBS)では、木暮毅と共にJr.の代表としてマイクを握り、番組のオープニングコールを行っていた。
1988年6月には光GENJIのサポートグループ「敦啓PEOPLE」にも参加。
ダンスがズバ抜けて上手く、「B・D 104」では木野正人の代役を務めた他、「平家派」では『剣の舞』のバックで初代一列目センターを務めた。
顔立ちが濃く、歌手の久保田利伸に似ているとよく言われていた。 また、ジャニーズJr.時代の中居正広に非常に慕われていた人物でもあり、中居は常に桑名の元にベッタリとくっついていた (他に中居が慕っていた先輩は大沢秀高と松元治郎)。 ジャニーズ退所後は実家の家業である家電サービスの店に勤務。
好きなアニメ:ドラえもん。 好きなゲーム:どうぶつの森。 - 小林崇央
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こばやし たかひろ。 1970年7月5日生まれ。渋谷区出身。武蔵野工業大学環境情報学部中退。
渋谷ライオンズクラブ会員。 また、子供の頃から空手を習っており、渋谷区錬心館空手の最高顧問。 声が高く、接続詞に「やはり」を多用するのが口癖。
中学3年から高校2年までジャニーズに所属。 その後、1999年に渋谷区区議会議員に当選し、ジャニーズOB初の政治家となった。(2人目は関裕通)
以後4期連続で当選。 当初は無所属だったが、途中から「みんなの党」に入党した他、不動産管理会社「セルリアン」を渋谷区に設立した。 当時開設していた自身の公式サイトでは、「タカヒロタイムズ」というコンテンツを設け、山本“KID”徳郁、玉山鉄二、永井大らとも対談した。
2013年、東京都議選出馬のために渋谷区区議会議員を自動失職。 しかし都議選では落選した。
一方で、2007年3月には、著書『目指せ! 初当選! 「地方議員」への道』(すばる舎)を、政治活動時の「小林タカヒロ」名義で上梓。
2011年3月14日には、当時スターダストプロモーション所属の女優、ファッションモデルだった、13歳年下の手嶋智子(てしま ともこ。1983年12月26日生まれ)と結婚。 結婚披露宴は約1年後の2012年4月1日に行われた。
この他、渋谷区青年会議所の元会員。 元・渋谷アート予備校講師。 元・国務大臣国土庁長官公認秘書。 元・株式会社アイケイコーポレーション(後の株式会社バイク王&カンパニー)取締役。 更に、一時的に流行したアメリカのシリコンブレスレット「パワーバランス」の独占的輸入契約を結んでいた正規代理店「株式会社パワーバランスジャパン」の元・代表取締役社長 (2010年一杯まで)。 なお、独占的輸入契約は2011年1月より、別会社である「BIG TREE GLOBAL株式会社」が引き継いだが、3年ほどで倒産。 [1]、 [2]、 [3] - 重盛雄一
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1970年7月17日生まれ。品川区出身。174cm。A型。 好きな歌手は本田美奈子、渡辺美里、ブライアン・アダムス。 男闘呼組の前身バンド「東京男組」の候補メンバーだった。
退所後は姉の応募により、1986年7月5日に10人組の男性アイドルグループ「美少年倶楽部」に加入。 オムニバスアルバム『美少年 (BI・SHONEN)』をリリースし、重盛は収録曲『悲しきスタンド・プレイ』をソロで歌唱。 更に美少年倶楽部から選抜された5人組「Peanut Boy」としても、シングル『八月のナイアガラ』(作曲:野村義男、作詞:秋元康)を、同じく7月5日にリリースした。
その後、『週刊セブンティーン』(1988年2月3日号、集英社)に、長沢幸男(後の長澤ユキオ → 澤木柊介)、真継久と共に男性モデルとして掲載。
(右隣は香野明恵)
武蔵工業大学付属高校を1989年に卒業。 そして明治大学に進学し、1993年に卒業。 東映株式会社に入社し、人事労政部の厚生室と労政室の次長に就任。 人事セミナーに講演者として招かれたりもしている。 好きなスポーツはスキーとゴルフ。
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- 野瀬久嗣
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のせ ひさし。1970年12月7日生まれ。東京都出身。好きな女性タレントはマイナーなアイドルだった渡辺理沙。
- 浜田〇〇 (世田谷区出身。私立桜美林高校卒業。1980年代後半に所属していたJr.)
- 張田政宏 (大阪から通い)
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はりた まさひろ。 中国語名:張政宏 (チャン・チェンハン、Chenghung Chang)。
1970年4月16日、台湾生まれ、大阪育ち。B型。愛称:ハーリー。特技:台湾語。兄弟は弟1人、妹2人。好きな言葉は「継続は力なり」。
近藤真彦に憧れて、中学3年(1985年)の夏休みにジャニーズ入り。 同じ大阪からレッスンに通っていた先輩の中村剛とよく一緒に行動していた。
しかし「俺はジャニーズだ」と言いながら女性をナンパしていることがジャニー喜多川に伝わってしまい、解雇された (中村ではない別の某先輩Jr.による証言)。
後に探偵となり、大阪市浪速区の自社ビル「張田ビル」にて、「イーグルアイ調査・探偵事務所」を設立。 更に同ビル内にて、お墓掃除代行の「ユーニークリーンサービス」、開運パワーストーンブレスレットを製作・販売する「天然石ブレスレット工房 SUN-HOUSE」も設立するなど、幅広く事業を展開。
2017年初頭頃に上咽頭癌が発覚。 その後、肺、肝臓、骨への多発遠隔転移を経て、更に癌が全身に増大転移し、終末期となった。 そして闘病生活の末、2018年9月13日に逝去。 48歳没。 周りに迷惑をかけたくないという本人の強い意志により、葬儀は家族のみで執り行われた。 [1]、 [2] - 前島龍太郎 (後の藤丸神太 → 龍太郎)
まえじま りゅうたろう。 1970年11月4日、東京都板橋区成増生まれ。静岡県富士宮市育ち。身長:170cm、体重:56kg。O型。愛称:りゅうくん、りゅう。 趣味:サーフィン。 好きなアーティストはマイケル・ジャクソン。 兄弟は9歳下に妹が1人。 妹はオスカープロモーションに所属していた元モデル。
マイケル・ジャクソンと少年隊に憧れ、17歳でジャニーズ事務所に入所。 最初は静岡からレッスンに通っていたが、同じ17歳の内に東京に転居。 ジャニーズJr.時代は「アイワントリオ」の一員としても活動した。
ジャニーズを退所後、1989年に同い年の元Jr.・佐々木秀和と一緒に原宿のアイドルワンダーランドのはす向かいにあったステージ「ハテナ広場」で踊って遊んでいた所、当時の竹下通りで複数のタレントショップを経営していた高齢男性から、「お前たちそういうのに興味あるのか? アイドルになりたいのか?」と声を掛けられてスカウトされる。 そしてその男性が「原宿アイドルプロジェクト」を企画。 ジャニーズ事務所との話し合いも済ませ、前島と佐々木、そしてジャニーズとは無関係の2名(最年長の「ミッチ」ことみちお、もう1名の愛称は「デレスケ」)を足した男性4人組のアイドルグループとして、ラッキィ池田の振り付けの下、坂本九の楽曲『明日があるさ』のカバーでCDデビューする予定で活動していた。 1990年にはプロジェクトの4名にテレビドラマ『はいすくーる落書 2』への生徒役の話も舞い込み、TBSテレビに呼ばれて本読みテストも行った。 そして前島か佐々木のどちらかで、後に萩原聖人が演じてブレイクするきっかけとなった「松岡直次郎役」にも内定していたが、当時は前島も佐々木もアイドルプロジェクトの活動に対して常に遊び半分な状態で真剣に取り組むことが出来ず、1990年にプロジェクトは消滅。 ドラマ出演の話も無くなってしまった。 「松岡直次郎」という役は、演じさえすれば誰でも一夜にしてスターになれてしまうほどの美味しい役どころで、萩原聖人もこの役に出会えていなければ、その後の俳優としての活躍も無かったと思われる。 それほどまでに、誰もが羨む重要で大きな当たり役だった。 もしこの役を予定通りに前島か佐々木が演じていたら、おそらくその後の人生は激変していたであろうと、本人たちもSNSなどで述懐している。 なお、『はいすくーる落書 2』は一部の工業高校関係者から「工業高校に対するイメージを損なう」との抗議が殺到したため、封印作品に指定されており、再放送もソフト化も一切不可能となっている。
その後は、原宿の高田純次のタレントショップ「スポーツ・キッズ」に勤務したり、バラエティ番組『オールナイトフジ』、『週刊スタミナ天国』、『はなきんデータランド』、テレビドラマ『誰かが彼女を愛してる』に出演。 雑誌『エルティーン』(1991年9月号)の素人男子紹介ページに掲載されたこともあった。 1990年代後半には、住み込みで新聞配達のアルバイトをしていた。
更にその後、5歳年上の女性と一時結婚。 また、2000年からは「藤丸神太」の芸名で役者となり、演劇パフォーマンス集団「劇団うぇいぶぁ~ず」を2004年まで主宰した。
2003年3月26日発売のallspiceのCDシングル『ムラサキ』のジャケットとMVに、張本昇役で出演。 更に自主制作映画『らくだ銀座』(2003年制作、2005年2月5日公開、制作:FireWorks・楽映舎)の、本編ではなく予告編(2003年公開、制作:侍STARS)の方に、大野卓馬役で出演。
その後、舞台女優だった鎌上阿希子と再婚し、2011年6月に男児をもうける。
2012年7月27日より、「龍太郎」名義でアメブロにてブログ「ALOHAの陽に・・・」を開設。
2013年、芸能事務所「庄司芸能」に所属し、同年12月、“演者もできるクリエイターチーム”がキャッチフレーズの演劇制作チーム「Shake☆Handsプロジェクト」を妻らと共に立ち上げ、リーダーを務める。
2015年8月、「Shake☆Handsプロジェクト」を「Shake3S」に改名。
[1]、 [2]、 [3] - 松元治郎 (後に一時、和久二郎)
- 山崎正人 (後の山崎銀 → 木山将吾 → 山崎ぎん)
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ジャニーズ在籍後期には「山崎銀次」という芸名を“自称”していた。
- 矢本俊仁 (大阪市から通い。ジャニー喜多川からの性的虐待によって心を病み自殺)
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やもと としひと。 1970年5月10日生まれ。大阪市出身。
1986年にジャニーズに入所。 Jr.時代に仲が良かったメンバーは、同じ関西勢だった柏木哲也、有染雄一。
ジャニー喜多川から非常に気に入られていたが、上京して原宿の合宿所に宿泊したり、関西圏でのジャニーズタレントのコンサートにジャニーが来る度に、ジャニーからの深刻な性加害に遭うようになって苦しみ抜いた末、心を病んでわずか18歳の若さで飛び降り自殺。
この出来事によってジャニー対する義憤に駆られた友人の柏木哲也は、矢本の無念を晴らすべく、当時北公次が展開していたジャニーズ事務所への糾弾活動に参加した。
なお、矢本以外にもジャニー喜多川からの性加害を苦に自殺した者が、少なくとも2名は存在することをジャーナリストの上杉隆が証言している。[1] - 米脇明彦 (双子。練馬区石神井出身)
- 米脇伸彦 (双子。練馬区石神井出身。後に出張専門のあん摩マッサージ指圧師、および鍼灸師に転身)
1971年生まれ
- 朝倉健仁
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1971年2月12日生まれ。 A型。 身長:177cm。 兄弟は1歳上に姉。 特技:テニス、怪談話。
- 阿部直人
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1971年11月12日生まれ。東京都青梅市出身。愛称:なおと。 趣味:釣り。 青梅市立第一中学校卒業。
シブがき隊に憧れて中学生の時に自分で履歴書を送ってジャニーズ入り。 1988年に退所。
高校卒業後に再び自分で履歴書を送り、モデル事務所「シャイニー」に所属。
モデル引退後は美容師に転身 (仙台にも同姓同名の美容師が居るが、全くの別人)。 2012年9月15日、東京都小平市にて美容室「HEART and HEARTS」をオープン。 - 有染雄一 (兵庫県から通い)
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ありぞめ ゆういち。 1971年10月28日生まれ。兵庫県尼崎市出身。A型。
ジャニーズ事務所に入所したいと思っていた中学3年の1986年6月、ジャニー喜多川に直接売り込もうと、「ABC ヤングアイドル野球大会」の開催日に阪神甲子園球場に向かった際、阪神電鉄・甲子園駅で黒のタンクトップにジーンズ姿、そして『仮面舞踏会』の頃の植草克秀の髪型をした人物を見つけたため後を追い、球場の外で「Jr.ですか?」と声を掛けてみた結果、それがJr.の柏木哲也だった。 この時、有染に続いて少年がもう一人柏木に話しかけに来たが、有染だけが何とか球場内への同行を許され、ジャニー喜多川を紹介して貰い入所となった。
Jr.時代に仲が良かったメンバーは、同じ関西勢だった柏木哲也、矢本俊仁。
高校卒業を機に退所し、専門学校に進学した。 - 伊藤智之
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1971年12月10日生まれ。八王子市出身。 3児の父。
中学2年生の時にジャニーズ事務所に履歴書を送り、オーディションを受けて入所。 在籍した期間は8~9ヶ月間だったが、当時は同じ八王子出身の山本淳一と親しかった。 ジャニーズの後は、サンミュージックプロダクションにも少し所属していた。
1998年10月よりフリーでタレントのマネージメント業、イベント企画・運営、広告代理業務、輸出入業務などを開始し、2003年8月10日、正式に芸能事務所「株式会社 UT PROMOTION」として設立した。
その一方で、2016年から2019年までの3年間は、多摩地区でタクシー運転手も経験。 その際、高橋和也を客として乗せたことがあり、伊藤が「もう歌の方はやられてないんですか?」と質問した所、ちょうど高橋の機嫌が悪かったらしく、「俺は歌をやめたことなんて一度も無いんだよ!」と怒られてしまったというエピソードを持つ。
2018年6月には、立川市議会議員選挙に「伊藤ともゆき」名義で無所属で立候補。 政治活動家の天木直人にも応援演説をして貰ったが、落選。
好きな言葉は「不可能は無い」。 - 岩佐克次
- 甲斐友一
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かい ゆういち。 1971年2月22日生まれ。福岡県田川郡福智町赤池出身。A型。愛称:トモ。一人っ子。
近藤真彦に憧れて上京。 住み込みで建築現場作業員をしながら、16歳の終わりの1988年1月31日にオーディションを受けてジャニーズ事務所に入所。 同期生には坂本昌行や国分太一、後の「SHADOW」の“赤木奈緒”こと小林直行らが居る。
ジャニーズJr.時代には、光GENJIの曲がフジテレビ『ひらけ!ポンキッキ』で挿入歌として使われるようになった縁から、甲斐がムックの着ぐるみの中に入って踊るという変わった仕事を貰っていた。 また、Jr.活動と並行しながら、ジャニーズ事務所には内緒で、アイドルグループ「ESCAPE」にも参加した。 ESCAPE以前にも、北公次FAMILYによるオムニバスアルバム「We're the JOHNNYS」(1989年12月10日)にコーラスで参加している。
父の逝去を機にESCAPEを脱退して福岡に戻る。 5年後に芸能界復帰を目指して再び上京。 その後、着ぐるみ人形劇団「劇団飛行船」に所属。 - 金田未来
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かなた みらい。 後にプロボクサーを経て、画家としても活動。ささやかながら個展も開いた。
- 川部智文
かわべ ともふみ。 1971年9月15日生まれ。神奈川県藤沢市出身。A型。愛称:川ちゃん。
美容師の父親と元・美容師の母親という家庭で育つ。 母親が川部の履歴書をジャニーズに送り、1983年(小学6年)の夏の終わりから、1987年(高校1年)の夏まで、約4年間Jr.として所属した。 中学2年の3学期(1986年)には、大磯ロングビーチで収録されたフジテレビ『火曜ワイドスペシャル 第13回 オールスター寒中水泳大会』に出演したり、日本テレビ『アイドル花組おとこ組』の北の丸公園ロケにて、“桜隊オーディションの参加者”という設定で出演させられたりもした。
1991年には「第4回 ジュノン・スーパーボーイ・コンテスト」に応募し、予選会のカメラテストに参加。その際の川部の写真が、同誌の同年9月号に掲載された (当時19歳)。
藤沢市立第一中学校卒業 (Jr.の佐藤正人と同級生)。 1987年4月、早見芸術学園専門学校 美容研究科(後の鎌倉早見美容芸術専門学校)と、神奈川県立湘南高校(4年間の夜間定時制)に同時入学。 翌1988年3月に専門学校の方を卒業。 平日の昼間と土日は地元・藤沢で美容師として働きながら、1991年3月に湘南高校を卒業。 同年4月に神奈川大学短期大学部 商学科第二部に推薦入学。 同時に昼間に働く美容室も、藤沢市内の別の店へと移った。 そして教員の2種免許も取得した後、1993年3月に同短大を卒業。
1994年4月、藤沢の美容室「COM's hair」に、初めて正社員の技術者として就職 (美容室勤務は3店舗目)。 同年10月、ケネス杯争奪カットコンクールで「優秀金賞」、「しんびよう賞」、「ともとも賞」の3賞を受賞。
1995年、美容雑誌『TOMOTOMO』(1995年3月号、新美容出版)の「GROWING GRAFFITI」のコーナーに掲載。 同誌には10代の頃の川部の写真も掲載されている (上の写真)。
同年、美容界のアカデミー賞とも言える「JHA (ジャパン・ヘアドレシッング・アワーズ)」にて、関東ブロック賞を受賞。
その後、都内の美容室勤務などを経て、1998年より六会日大前(藤沢市亀井野)の父親の美容室「Skyflower」に勤務。 やがて経営を引き継いだ。
2013年、週刊新聞紙『WWD Beauty』(2013年12月19日号、Vol.295、INFASパブリケーションズ)の、「nextリーダーは誰だ!」の特集ページに掲載。
2014年10月、藤沢市が選ぶ現代の名工「藤沢マイスター」に、“美容の匠”として最年少で認定される。
美容情報誌『くるくる』(2017年12月~2018年1月号、コワフュール・ド・パリ・ジャポン)の「Wonderful Life」のコーナーに掲載される。
2018年3月6日、ラジオ番組『GOOD MORNING 湘南』(レディオ湘南)にゲスト出演。
同年3月19日、テレビ番組『湘南人図鑑』(J:COMチャンネル)にゲスト出演。
[1]、 [2]、 [3]、 [4]、 [5] - 佐々木秀和 (後のホスト・明星光時)
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「アイワントリオ」の一員。 愛称:秀くん、ひーくん、ひーたん、デーヒー。 サラサラの茶髪が特徴だった。
1971年2月18日生まれ。江戸川区出身。小学4年から千葉県船橋市育ち。B型。 私立大杉神明幼稚園(江戸川区)、江戸川区立大杉第二小学校(3年生一杯まで) → 船橋市立二宮小学校(4年生から)、同市立二宮中学校卒業。 幼稚園時代にはバラエティ番組『ママとあそぼう!ピンポンパン』(フジテレビ)への出演も経験した。
14歳(中学3年の3学期)から18歳までジャニーズJr.として活動。 Jr.時代には、テレビドラマ『おもいっきり探偵団 覇悪怒組』(1987年1月11日 - 12月27日、フジテレビ)に、「パチンコ組」と呼ばれる小学生役で3回出演した。
また、ジャニーズ事務所出資の下、元フォーリーブスの青山孝とおりも政夫が1989年初頭に静岡県浜松市で開校した音楽学校『タレント・ミュージック・スクール』に、東京からの特待生として数名のJr.と共にレッスンを受けに行ったこともあった。
ジャニーズを退所後、1989年に同い年の元Jr.・前島龍太郎と一緒に原宿のアイドルワンダーランドのはす向かいにあったステージ「ハテナ広場」で踊って遊んでいた所、当時の竹下通りで複数のタレントショップを経営していた高齢男性から、「お前たちそういうのに興味あるのか? アイドルになりたいのか?」と声を掛けられてスカウトされる。 そしてその男性が「原宿アイドルプロジェクト」を企画。 ジャニーズ事務所との話し合いも済ませ、佐々木と前島、そしてジャニーズとは無関係の2名(最年長の「ミッチ」ことみちお、もう1名の愛称は「デレスケ」)を足した男性4人組のアイドルグループとして、ラッキィ池田の振り付けの下、坂本九の楽曲『明日があるさ』のカバーでCDデビューする予定で活動していた。 1990年にはプロジェクトの4名にテレビドラマ『はいすくーる落書 2』への生徒役の話も舞い込み、TBSテレビに呼ばれて本読みテストも行った。 そして佐々木か前島のどちらかで、後に萩原聖人が演じてブレイクするきっかけとなった「松岡直次郎役」にも内定していたが、当時は佐々木も前島もアイドルプロジェクトの活動に対して常に遊び半分な状態で真剣に取り組むことが出来ず、1990年にプロジェクトは消滅。 ドラマ出演の話も無くなってしまった。 「松岡直次郎」という役は、演じさえすれば誰でも一夜にしてスターになれてしまうほどに美味しい役どころで、 萩原聖人もこの役に出会えていなければ、その後の俳優としての活躍も無かったと思われる。 それほどまでに、誰もが羨む重要で大きな当たり役だった。 もしこの役を予定通りに佐々木か前島が演じていたら、おそらくその後の人生は激変していたであろうと、本人たちもSNSなどで述懐している。 なお、『はいすくーる落書 2』は一部の工業高校関係者から「工業高校に対するイメージを損なう」との抗議が殺到したため、封印作品に指定されており、再放送もソフト化も一切不可能となっている。 ちなみに、佐々木は萩原聖人とは、萩原がブレイクする前からの友人同士で、よく遊んでいる関係でもあった。 萩原の家に泊まりに行ったり、萩原の母も交えて3人で外食したり、萩原の知人が出演する舞台を一緒に観に行った際には、最初から最後まで寝てしまって萩原に怒られたり、萩原の母が新宿3丁目で経営していた居酒屋「〇 」に、萩原と共に閉店後の深夜に勝手に忍び込み、ウイスキーの水割りを飲んだりカラオケで歌ったりしたこともあった。
芸能界引退後は葛飾区新小岩のホストクラブにて「明星光時 」の源氏名でホストに。
勤務店は「MAX」 → 「BrinG BRING 」 → 「LUCE 」 → 「Ai-Addiction」の順で転籍した(全て新小岩)。 キャバクラ&ホスト情報のフリーマガジン『DOKIPOKE』の人気投票にて初代殿堂入り。 コラム「夜のホストスタジオ (略称:夜ホス)」を3年間連載した。
また、2010年代前半頃にはホストと並行して、小さな芸能事務所「スタープレミアプロダクション (略称:スタプレ)」に所属し、アマチュア音楽ユニット「スーパー・スター・スペシャル (略称:SSS)」としても活動していた。 ユニット名は「JOHNNYS' ジュニア・スペシャル (略称:JJS)」からの引用で、佐々木が命名。
2015年1月31日にホストを引退。 ほしのあきのファン。
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- 佐藤正人
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愛称:サトキン。 藤沢市出身。 藤沢市立第一中学校(Jr.の川部智文と同級生。
正木慎也や佐藤敦啓も同中学の出身)、横浜市立港商業高校(定時制)卒業。 顔が小さく、身長は180cm近くある長身だった。
ジャニーズを退所後は、18歳で「精龍會中國拳法道場」(1979年設立)に入門して武道家・格闘家となる。 道場の老師・龍 飛雲(本名:藤田徳明)のアシスタントとしてテレビ・DVDなどに出演。 老師が2007年2月14日に他界した後は、佐藤が同道場の代表となった。
演武、用法、実践ともに高度な技術を持ち、蛇拳、秘宗拳に詠春拳の理論を組み合わせたスタイルを確立。 ムエタイ、キックボクシングなど様々な武術を学び、闘龍トーナメント、テコンドートーナメント、創天会代表の小笠原和彦や、元UKF世界ライト級チャンピオン・羽田真宏との空手カンフー交流試合など、数々の試合を繰り広げた。
2010年に精龍會中國拳法道場を畳み、同年11月、新たに横浜市にて「龍泰拳功夫國術館」を設立。代表および師範を務める。 翌2011年、龍泰拳功夫國術館が「中国拳法連盟 龍志拳友會」(2009年設立)に加入。 - 菅沼貴之 (菅沼文敏の弟)
(1987年10月25日)
1971年2月1日生まれ。静岡県浜松市中区出身。A型。172cm。 浜松市立佐鳴台 (さなるだい) 小学校、同市立蜆塚 (しじみづか) 中学校、私立明治大学付属中野高校(定時制)卒業。 アイドル水泳大会には、1987年2月放送のフジテレビ『火曜ワイドスペシャル 第14回 オールスター寒中水泳大会』と、1988年2月16日放送の『火曜ワイドスペシャル ドキッ!丸ごと水着 女だらけの水泳大会』に出演したが、1987年出演時のテロップでは「菅沼隆之」と誤植されている。
1984年1月、中学1年生(12歳)の正月に、ジャニーズに入るべく一人で上京し、恵比寿にあったジャニーズファミリークラブを訪ねるも、正月で休業中だったために断念。
同年10月、中学2年生(13歳)の時に、今度は2歳年上の兄・文敏と一緒にファミリークラブを再び訪ね、主任の喜佐上聖子にジャニーズに入りたいと伝えた結果、すぐにジャニー喜多川に連絡を取って貰え、原宿の合宿所でジャニーと面談し、合格。 ジャニーは「兄弟2人でレッスンに来なさい」と言ったが、兄はジャニーズに興味が無かったため、翌週から一人でダンスレッスンに通い始めた。
1986年3月に中学を卒業すると、明治大学付属中野高校定時制に入学して都内で一人暮らしを開始。 翌1987年3月には高校を卒業した兄・文敏も上京して来たため、二人暮らしをするようになった。 なお、貴之は大沢樹生にそっくりだったため、大沢からは「お前、誰かに似てるなぁ…、あっ俺だ!」などといじられながら、とても可愛がられていた。 他には、前薗宏一郎からも可愛がられていた。
1990年3月、高校卒業と同時にジャニーズも退所。 その後、芸能事務所「オフィス羽田野」に所属し、テレビドラマ『五月の風 ~ ひとりひとりの二人』(1991年5月22日、日本テレビ。後にビデオ化)、 『世にも奇妙な物語 「笑う女」』(1991年6月20日、フジテレビ。主演の榎木孝明に電話を渡すウェイター役)に出演。 川平慈英やC.C.ガールズがレギュラーだった深夜番組『J・Boat』(1991年、日本テレビ)のドラマコーナーにも複数回出演した。
Jr.時代に最も仲の良かった人物は、同じ静岡県から通っていた同い年の諸星和己で、レッスンの後は東海道線(在来線の電車)に乗って一緒に帰ったり、菅沼が高校に進学して都内で一人暮らしを始めた時も、諸星は泊まりに来ていた。 1986年当時、東中野の明大中野高校の近くに遊びに来た諸星を、高校の先輩の大沢樹生のもとに連れて行って紹介し、諸星と大沢が人生初対面の現場を作ってあげたのも菅沼だった (大沢は1985年と1986年の約2年間はJr.のダンスレッスンを休んでいたため、それまで諸星とは会う機会が無かった)。 なお、菅沼は2011年5月18日に浜松で開催された「みんなでつくるゴルフトーナメント とおとうみ浜松オープン」のプロアマ大会に知人が出場する際、応援のためにギャラリーとして観戦しに行ったが、同大会には諸星もゲスト参加しており、ゴルフ場併設のホテル「グランドエクシブ浜名湖」内の通路にてバッタリと偶然の再会を果たしている。 また、同じく静岡県出身の木野正人とは退所後も交流が続いている。
(左端が菅沼。 1988年2月16日放送のフジテレビ『火曜ワイドスペシャル ドキッ!丸ごと水着 女だらけの水泳大会』より)
(左から阿部直人、松元治郎、菅沼貴之、木野正人、桑名兼司、東昌孝。 1988年2月16日放送のフジテレビ『火曜ワイドスペシャル ドキッ!丸ごと水着 女だらけの水泳大会』より)
(1988年2月14日。左から東昌孝、菅沼貴之、佐藤正人)
(1988年2月14日。左から佐藤敬、菅沼貴之、松原一平) - 鈴木剛
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1971年10月7日生まれ。東京都北区出身。O型。
1990年3月に私立本郷高校卒業、1995年3月に成蹊大学卒業。
趣味は麻雀、サッカー観戦、ゴルフ。
- 谷本勇人 (石川県出身)
- 松崎浩二 (10月10日生。千葉県船橋市出身。兄は松崎優。妹の松崎真由美も元モデル・タレント)
- 松崎力 (まつざき ちから。「つとむ」は誤り。5月13日生。埼玉県大宮出身。西東京市在住)
- 横山雅巳
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1971年5月10日生まれ。東京都出身。愛称:ヨコ。好きな女性タレントは南野陽子。
テレビドラマ『3年B組金八先生スペシャル 5』(1986年12月26日、TBS)に出演。
1972年生まれ
- 石川徹
1972年9月30日生まれ。神奈川県相模原市出身。 愛称:いっち。 専門学校卒業。
趣味:ビリヤード。 好きな食べ物:フルーツ、スナック菓子。 嫌いな食べ物:エビ、魚、なめこ。
後に相模原市のサッカーチーム「オダサガ・ユナイテッド」に所属。 兄弟は兄が2人。 - 石山秀雄
1972年2月6日生まれ。埼玉県出身。愛称:ひでくん。白人とのハーフ。好きな女性タレントは石原真理。 - 海老原修
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えびはら おさむ。 1972年11月28日生まれ。荒川区東尾久出身。B型。 愛称:エビちゃん、エビさん、エビ。
熊野前商店街で商店を営む家庭に生まれる。 荒川区立尾久小学校、同区立尾久八幡中学校、都立荒川工業高校 情報技術科卒業。 ただし高校1年生の時に停学を11回も受けたことで留年し、1年生を2度経験した。
有名人との交遊がとても多く、電撃ネットワークのギュウゾウと親しい他、同い年の飯島愛とは高校時代から親しい友人関係だったこと、 長瀬智也、牧野田彩、紅音ほたるとも親しい友人だったこと、そして武田千春(武田信玄の子孫。元・オスカープロモーションのモデル)と交際していたことなどをTwitterで報告している。
好きな映画は実写版『湘南爆走族』。 好きなジュエリーブランドはゴローズ。 兄弟は妹が一人。
小学生の時、初恋の女の子の誕生日プレゼントを買いに原宿の竹下通りへ行った際、竹下通りの出口付近でジャニー喜多川にスカウトされる。 バラエティ番組『たのきん全力投球!』に出演したり、少年忍者のバックで踊ったり、テレビドラマ『あぶない少年』にエキストラ出演したこともあったが、中学3年の時にジャニーズ事務所を退所。 しかし高校に入学後、再びジャニー喜多川から連絡があり、1989年に平家派の一員としてテレビ朝日『アイドル共和国』で光GENJIのバックダンサーを少しだけ務めた。
その後、暴走族「堀船 極悪」(通称:堀極。総長)、「町屋 極悪」(通称:町極。17期総長)、「東京連合」(二代目総長 〔連合長〕)、渋谷のチーム「Team 渋谷宇田川警備隊」(通称:宇田警。拠点:ちとせ会館前。三代目&四代目の裏の頭)に所属。 高校時代にはテコンドーを習ったり、近所の「トクホン真闘ボクシングジム」に入会してボクシングも始めた。 途中から足立区関原のボクシングジム(草加有沢ボクシングジムの系列)に移籍し、17歳でプロテストに一発合格。 後楽園ホールでの試合にも出場していたが、指を故障し、無敗のままで引退した。 海老原の試合時の入場曲は、近藤真彦の『大将』だった。 それから、知人の紹介で目白の「ヨネクラボクシングジム」に所属し、足技に頼ってキックボクシングを始める。 試合にも出場したが、ジムが遠くて通いづらかったため、やはり無敗のままで引退し、最終的に極真空手を習うようになった。
一方で、知人から依頼されてテレビ朝日のダンス番組『DADA』に一度だけダンサーとして出演し、ボビー・ブラウンのコピーダンスを披露した他、モデル業をしたり、北千住の駅ビル「Wiz (後のルミネ)」5階の婦人服店「ニンジン」、ファッションブランド「プレイロード」、プレイロードの子会社「グラスメンズ」(店員 兼 デザイナー)など、アパレル業界に勤務。
1991年8月31日公開の映画『代打教師 秋葉、真剣です!』にチーマー役で出演。
その後、六本木「ヴェルファーレ」、青山「MUSE」、麻布十番「Club Salem Byblos」、赤坂「CLUB areju (アージュ) (2004年までの旧名:CLUB FORUM)」などのディスコ、クラブや、豊島区北大塚にあった無国籍料理店「LITTLE HEAVEN」で勤務。 LITTLE HEAVENには工藤兄弟が客としてよく訪れていた。
1997年10月27日放送のテレビドラマ『ラブジェネレーション』(第3話、フジテレビ)にて、渋谷のクラブ「Fura」のシーンにエキストラ出演し、木村拓哉と共演。
ディスコ勤務やLITTLE HEAVENと並行しながら、かつてやっていたアパレルデザインの延長、芸術の一環として、入れ墨を彫る「彫師」の、千駄木・初代彫一の一門に弟子入り。 やがて「彫修 (ほりしゅう)」名義で、手彫りまで出来る和彫専門の彫師となったが、母親が彫師の仕事に猛反対していたこともあり、2004年に師匠の初代彫一が引退する際、海老原も同時に引退した。
2016年4月4日に東京都北区東田端にオープンした「DJ&BAR MiX」の雇われ店長となり、DJも務める。 そして同店の顧問は、ジャニーズ時代の先輩が務めていた。
2017年12月31日に「DJ&BAR MiX」が閉店。
なお、『週刊女性』(2017年2月21日号、主婦と生活社)に掲載された「7人目のSMAPが独占告白 木村は女の子が精神安定剤なところがある」の記事に登場する「J氏」は、海老原のことである。 この記事は、いわゆる「SMAP解散騒動」で木村拓哉への非難が吹き荒れる中、木村を持ち上げるために書かれた「上げ記事」で、ライターは田辺エージェンシーの元社員・小池あんな (夫はテレビ朝日の社員)。 海老原はこのライターに無理やり頼まれて取材協力したが、記事の内容は海老原へのインタビューを正確に文章にしておらず、時系列も内容も間違いだらけのものとなっている。 海老原自身もTwitterで、あまりの酷い内容に驚いたことや、自分は「7人目のSMAP」なんかではないことを説明している。 同誌に掲載された海老原のモザイク写真も、東田端の「DJ&BAR MiX」のカラオケルームで、ライターからリクエストされて少年隊の『仮面舞踏会』を歌っている最中にこっそりと撮られたものだった。 また、イニシャルが「J氏」となっていたことから、ネット上では「松元治郎では?」という憶測が散乱する事態となった。 - 大内〇〇
- 太田哲司
- 大野靖司 (後の周摩 → 大沢一起)
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1972年7月25日生まれ。東京都出身。A型。身長:177cm。
趣味:詩を書く事、油絵。 特技:クラシックバレエ。
後に事務所を移籍して俳優となり、 テレビドラマ『特警ウインスペクター』(1990年7月8日、テレビ朝日。第23話「父のマンガはがき」)、 『結婚運』(1991年6月4日、日本テレビ)、 『女弁護士・朝吹里矢子 (12) 相続放棄の謎』(1991年7月13日、テレビ朝日)、 『不思議少女 ナイルなトトメス』(1991年8月18日、フジテレビ。第32話「盆踊りの練習」にて声優出演)、 映画『就職戦線異状なし』(1991年6月22日)、 『波の数だけ抱きしめて』(1991年8月31日)に出演した。
1995年、「サラ・プロジェクト」に移籍し、「周摩 (しゅうま)」の芸名で年齢を3歳若く詐称して再スタート。 テレビドラマ『ラブレター』(1995年5月9日、日本テレビ)、 映画『エコエコアザラク ~WIZARD OF DARKNESS~』(1995年4月8日公開。新藤剣一役)、 『いたずらロリータ』(1995年11月10日)、 『スケバン女教師』(1996年2月9日)に出演。
1996年、芸名を更に「大沢一起 (おおさわ いっき)」に改名。
以降、テレビドラマ『TOKYO23区の女』の第7話「千代田区の女」(1996年5月17日、フジテレビ)、 『おとり捜査官・北見志穂 ラッシュアワー連続殺人事件』(1998年5月30日、テレビ朝日。高知東急と共演)、 映画『学校Ⅱ』(1996年10月19日)を始め、多数の作品に出演。 また、途中からプロフィールの生年月日を元の「1972年生まれ」に戻した。
その後、芸能事務所「SunPlace」に移籍。
2012年、ピアニストの老沼伸一、ギタリストの小松哲 (あきら) と共に、演劇ユニット「Champria (シャンプリア)」を結成。
[1]、 [2]、 [3]、 [4] - 岡田賢一郎
1972年9月25日生まれ。埼玉県出身。B型。愛称:オカッチ。 趣味・特技:サッカー。 好きな食べ物:チーズケーキ。 1987年春にジャニーズに入所。 - 小山田英樹
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1972年10月11日生まれ。東京都出身。愛称:オヤ。 ホストに転身説あり。
- 川鍋順司
- 小林直行 (後の赤木奈緒)
- 佐藤敬
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さとう たかし。 1972年2月16日、東京都生まれ。千葉県育ち。A型。愛称:サトッペ、たっちゃん。
兄弟は3歳下に妹、11歳下に弟。 趣味:野球観戦 (巨人ファン)。 得意なスポーツ:陸上、テニス。 好きな食べ物:ハンバーガー。
1986年9月にジャニーズに応募し、同年秋に入所。但しレッスンに通い始めたのは高校受験を終えた1987年の春から。
(『POTATO』1988年5月号での、「去年の9月に応募した」という記事は誤り。正しくは「去年」ではなく「おととし」)
- 佐藤直 (4月4日生。1988年8月20日入所。1989年3月30日退所)
- 椎貝健夫
- 田中浩 (大阪から通い)
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たなか ひろし。1972年3月4日生まれ。O型。 東山紀之に憧れてJr.入り。 当初は大阪から通い、学校も大阪の高校に行っていたが、1989年3月に上京し、4月から都内の夜間高校(4年間の定時制)の建築科に転校した。
ジャニーズ退所後は、1991年の「第4回 ジュノン・スーパーボーイ・コンテスト」BEST40にノミネートされ、第20位で終えた。
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- 中川正樹
- 野田成幸
- 長谷川文高 (尊敬する先輩は東山紀之)
- 平岡功次
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1972年7月29日生まれ。埼玉県出身。AB型。
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1972年7月29日生まれ。埼玉県出身。AB型。
- 藤井孝浩 (後の泉見洋平)
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正式にはジャニーズ入りしておらず、「桜隊」への参加のみ。
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1972年3月15日生まれ。O型。徳島市から通い。
1987年にニューヨークに留学してボーカルとダンスを学ぶ。 1990年12月に泉見洋平に改名。「パシフィックカンパニー」に所属し、ミュージカル俳優、ソロシンガーとして活躍。 同1990年には泉見洋平名義で「第3回 ジュノン・スーパーボーイ・コンテスト」にもノミネートされた。 [1]、 [2]
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- 森久典 (元・SMAPの森且行の1歳上の兄)
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愛称:チャー君。 定時制高校卒業。 後に一時、「森正行」の通名を使用していた。
1987年の夏休みに弟と共にオーディションを受けずにジャニーズ事務所に入所。 その後、同年11月15日に行われたジャニーズJr.のオーディションに兄弟で形だけ参加した。
『月刊明星』の1989年10月号、1991年8月号、1991年10月号付録「SMAPパーフェクト図鑑」の3冊にて、弟・森且行と共演掲載。
弟がオートレースのSG(日本選手権)で優勝した際には、ラジオ番組『サンデーミュージックBOX』(2020年11月29日、信越放送)にもゲスト出演した。
2023年2月19日、TBS『情熱大陸』で弟の特集が放送された際にテレビ初出演。
同年3月18日公開のドキュメンタリー映画『オートレーサー森且行 約束のオーバルへ』にも出演。
好きなジュエリーブランドはゴローズ。 - 安田哲
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やすだ さとし。神奈川県藤沢市辻堂元町出身。
中学3年だった1987年11月1日に、今は無き後楽園球場で行われた『オールスター夢の球宴・後楽園球場ファイナル』(同年11月24日放送、フジテレビ・火曜ワイドスペシャル枠)に、木野正人、中居正広、渡辺一久との4名で「ジャニーズJr.」として出場した。
しかし、高校受験を理由にジャニーズを退所。
藤沢市立明治中学校(中居正広と同級生)、神奈川県立長後高校、帝京大学を卒業後、明治製菓に就職。後に工場設備関係の商社へ転職し、営業を担当した。
高校、大学、実業団と、ずっとアメリカンフットボール部に所属したスポーツマン。 その一方で、スキムボーダーにもなり、「Victoria Skimboards」、「Quality」、「Paradise Coalition」、「Reg Wetsuits」、「スキムワン」からのスポンサードを受ける一流選手に。 「全日本スキムボード選手権」(2002年8月31日&9月1日、千葉県鴨川)にて優勝、2009年の「GUSTY CUP 2nd ヒーロークラス」でも優勝、「SKIMBOARD CHAMPIONSHIP 3th プロクラス」で2位、などの成績を持つ。 また、当初はアメリカのVictoria Skimboardsの“インターナショナルチーム”に登録されていたが、2008年に正式に“プロチーム”へと昇格。 日本人がスキムボードのプロチームに入ったのは史上初。
2005年4月28日、高校の後輩と共に藤沢市にオール電化&太陽光発電専門会社「(株)コクホーシステム」を設立(店舗名は「オール電化情報館」→「ソーラー情報館」)。 同社の代表取締役社長を務める他、「MY-HASHI基金」の事務局長、「金の糸アンチエイジング協会(略称:GFAA)」の理事などの肩書きも持つ。
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やすだ さとし。神奈川県藤沢市辻堂元町出身。
中学3年だった1987年11月1日に、今は無き後楽園球場で行われた『オールスター夢の球宴・後楽園球場ファイナル』(同年11月24日放送、フジテレビ・火曜ワイドスペシャル枠)に、木野正人、中居正広、渡辺一久との4名で「ジャニーズJr.」として出場した。
しかし、高校受験を理由にジャニーズを退所。
- 渡辺一久
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1972年5月27日生まれ。東京都江戸川区出身。身長:171cm。A型。
都立城東高校、玉川大学卒業。 アクロバットが得意だった。
「TOKIO BAND」のサポートメンバーを経て、SAY・Sの当て振りバックバンド「NEWS」に参加した他、1992年4月と1993年6月には、坂本昌行と共にミュージカル『阿国』に出演した。
1973年生まれ
- 大嶌忍
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1973年1月15日生まれ。千葉県佐倉市出身。A型。愛称:ぶぅ。千葉県の私立男子高校卒業。好きな言葉は「show must go on」。
Jr.時代にはSMAPの木村拓哉が舞台『花影の花 ~大石内蔵助の妻~』(1992年12月6日 - 12月27日、日生劇場)に出演した際に木村の付き人も経験した。 続いて田原俊彦の付き人もやらないかとジャニー喜多川から打診されたが、それは断った。
その他、光GENJIのコンサートではバックを務めるTOKIOの山口達也の代役メンバーを務めたりもしたが、右脇腹に重度の帯状疱疹を患ってしまい退所した。 その後は服飾業界に就職。
2023年8月7日公開のYouTubeチャンネル「全力!生存確認」の動画に出演し、喜多見英明、国分博と共演。 - 萱嶋大輔
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1973年2月1日生まれ。東京都出身。愛称:カヤ。
- 木部淳哉
- 酒井貴史 (4月11日生。足立区出身。特技:サッカー)
- 佐藤功
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さとう いさお。 1973年12月11日生まれ。神奈川県出身。愛称:イサッチ。
5人兄姉の末っ子。姉が3人、兄が1人。 好きな女性タレントは中山美穂。 後輩のJr.からは恐い性格だと恐れられていた。
中学校では陸上部に所属。 下の画像では「高校に合格しました」と書かれているが、実際は高校には行かず、中学卒業後は商業の専門学校に進学した。 - 関裕通
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せき ひろみち。1973年6月22日生まれ。埼玉県川口市出身。O型。
川口市立本町小学校、同市立南中学校、私立岩倉高等学校卒業。
1988年に「平家派」に参加し、少年忍者の曲『愁列車』や光GENJIのバックで和太鼓を担当していた坊主頭のJr.。 ジャニー喜多川から、TOKIOの前身にあたるバンド「TOKIO BAND」のドラムをやらないか?と誘われたこともあったが、「ダンスをやりたいからバンドはちょっと…」と断った。
1990年にジャニーズを退所した後は、俳優・竹中直人のマネージャーを経て、実家の家業である冠婚葬祭会社「(有)花 ぜんセレモニー」の社長に就任した(後に社長職は6学年上の兄に交替)。
一方で自由民主党に入党し、2007年に川口市議会議員に当選。 ジャニーズ出身者で2人目の政治家となった(1人目は小林崇央)。 また、2007年2月21日から12月29日まで、ブログ「せき 裕通の いつも 青春・元気・爆発!」を綴っていた。 [1]、 [2] - 瀬良清人
- 高橋利安
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1973年7月25日生まれ。ジャニーズと並行して「東映児童研修所 (後の東映アカデミー)」にも所属していた子役俳優。 ジャニーズではなく東映児童研修所の方の仕事として、フジテレビ『ペットントン』(1983年 - 1984年、畑ネギ太役)、TBS『オヨビでない奴!』(1987年 - 1988年)、NHK総合『雨月の使者』(1987年)、NHK総合・大河ドラマ『春日局』(1989年)など、1983年から1994年まで実に数多くのテレビドラマに出演した。 また、実写映画『湘南爆走族』(1987年)、『バタアシ金魚』(1990年)、CM「国民年金」にも出演している。
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- 野口隆史 (後の反町隆史)
- 原嶋秀行 (後の鉄平)
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1973年3月3日生まれ。埼玉県出身。17歳だった1990年にジャニーズに入所。 19歳だった1992年にモデル事務所に所属し、CMや雑誌で活動。
同年に歌舞伎町にてホストに転向し、入店3ヶ月目でナンバーワンに。源氏名は「鉄平」。
以降8年間、不動のナンバーワンを続け、“元祖カリスマホスト”として名を馳せた。当時の年収は5000万円以上だった (最高月収は約1500万円)。
2000年には、同じく歌舞伎町にホストクラブ「Lady's Club PRESIDENT」をオープンしてオーナーに。 しかしすぐに経営権を譲り渡し、原口は歌舞伎町の老舗ホストクラブ「愛 本店」のホストに。(PRESIDENTは2000年代の後半に閉店)
2003年末には、東京都中野区中野にて総合格闘技のジム「シュートボクセ・アカデミージャパン」(シュートボクセ・アカデミーの日本支部)を設立して代表に(2007年10月で閉鎖)。 この他、ミュージシャンや、ホスト同士の格闘技大会「ホストボンバイエ」の司会などもしていた。
元・女子プロレスラーのキューティー鈴木(本名:由美。1969年10月22日生まれ。川口市出身)と3年の交際の後、2005年5月5日に結婚。 同年7月10日に都内のホテルで披露宴を行った。 2人の出会いは、1994年にまでさかのぼり、友人の飲み会で知り合った。その後、キューティーからの猛アプローチの末、交際に至った。
2006年7月25日、第一子となる長男が誕生。 原口はそれまで、“個人所有日本一”と目される程の玩具・フィギュアコレクターで、総額2億円あまりを費やし、3000体以上を所有。雑誌で特集を組まれたこともあったが、長男の誕生を機に全て売却してしまった。 4トントラック7~8台分の量だったが、売却総額は2千万円にしかならなかった。
そして、今度は昆虫の標本コレクションに多額の金を費やすようになり、普通のキッチンの冷凍庫で、標本のために昆虫を冷凍保存するようにもなった。また、化石のコレクションも始めた。
2008年7月25日より、「鉄平 オフィシャルブログ 牛乳は噛みながら飲め!!」を開設。(2010年に閉鎖)
2010年6月29日には、夫婦でテレビ東京『開運!なんでも鑑定団』の「第9回 出張!スポーツグッズ鑑定大会」に一般応募で出演。 出品物はヴァンダレイ・シウバのPRIDE優勝トロフィーで、本人評価額は100万円だったが、鑑定士・泉高志による評価額は18万円だった。
2011年3月20日、やはり夫婦でテレビ朝日『新婚さんいらっしゃい!』に出演 (原嶋の肩書きは「新宿で飲食店経営」)。 番組の最後に行われるゲーム「LOVEキャッチ」では、30万円の賞金を獲得した。
2011年7月21日、第二子(男児)が誕生。
2013年6月、都内に一戸建て(3階建て)の新居を購入。
同年11月25日、『私の何がイケないの? 妻の不満爆発!幸せ家族の裏側SP』(TBS)に夫婦そろって出演。 この時点での原嶋の肩書きは「某病院総務課での事務長」。 事務長としての月収と、原口がホスト時代に購入した3LDKのマンションの家賃収入を合わせ、毎月80万円の収入があるが、お金の管理は原口がしており、毎月15万円だけを生活費として妻に渡し、残りは全て原口が自分の趣味に費やしていたこと、フィギュアを売却して得た2千万円も使い果たしていたこと、貯蓄が全く無いことも明かされた。 また、この番組ではスタジオでおりも政夫と共演した。
2014年1月7日、『芸能人今でもスゴい!懐かしの100人すべて見せます生放送スペシャル!』(フジテレビ)で妻が紹介された際、原嶋の姿も一緒にテレビに映る。
同年7月29日、『解決!ナイナイアンサー』(日本テレビ)に夫婦そろって出演。
2016年7月22日、『爆報!THE フライデー』(日本テレビ)に夫婦そろって出演。 原嶋は新たに動物のはく製収集にハマり、既に2300万円もつぎ込んでいることが明かされた。
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1973年3月3日生まれ。埼玉県出身。17歳だった1990年にジャニーズに入所。 19歳だった1992年にモデル事務所に所属し、CMや雑誌で活動。
同年に歌舞伎町にてホストに転向し、入店3ヶ月目でナンバーワンに。源氏名は「鉄平」。
以降8年間、不動のナンバーワンを続け、“元祖カリスマホスト”として名を馳せた。当時の年収は5000万円以上だった (最高月収は約1500万円)。
- 平野喜弘
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埼玉県出身。
中学、高校と陸上部に所属 (走り高跳び)。
- 吉行智成
1974年生まれ
- 河井誠
- 菅勇太
かん ゆうた。 1974年1月11日生まれ。世田谷区出身。A型。愛称:かんちゃん。 世田谷区立砧南中学校(野球部 → バレーボール部)、私立堀越高校、両国柔整鍼灸専門学校 鍼灸科 夜学部卒業。 高校では赤坂晃、佐藤アツヒロ、稲垣吾郎と同級生だった。 好きな女性芸能人:綾瀬はるか。 好きな映画:『スターウォーズ』。
ジャニーズを退所後は役者の道を志し、1992年の「第5回 ジュノン・スーパーボーイ・コンテスト」BEST40にノミネートされ、第33位で終えた (同年9月号~12月号に掲載)。 また、1996年にはテレビドラマ『白線流し』(フジテレビ)にエキストラ出演した。
25歳の時に鍼灸師を志し、両国柔整鍼灸専門学校 鍼灸科 夜学部に入学。 2005年、はり師・きゅう師免許を取得。 「あおき整形外科」(越谷市千間台)、続いて「とろ整形外科」(さいたま市北区土呂町)での勤務を経て、2013年3月、中目黒に「ゆう鍼灸院」を開業した。 同年、「生活習慣遺伝子カウンセラー」の認定も受ける。 完全予約制の鍼灸院で、森田剛などのジャニーズタレントたちを始め、多くの有名人に利用されている。 [1]、 [2] - 熊谷有一
- 佐川弘信 (東京都出身)
- 十倉太一
- 山本隆文 (後に一時期、本多隆文)
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1974年5月9日生まれ。杉並区出身。A型。赤坂晃のいとこ。都立代々木高校卒業。
ジャニーズに入る以前は雑誌『明星ヘアカタログ』などでモデルをしていた。 また、ジャニーズ在籍時は諸星和己から可愛がられていた。
退所後、「本多隆文」の芸名で1998年4月25日にCDシングル『NUDE c/w どうにもならない愛だけど』を発売。
その後、2006年3月20日にオープンしたBar&ビュッフェ「Chef's V Party」(渋谷区渋谷1-23-16 cocotiビル 3F)にて雇われ店長をしていたが、2008年後半に閉店。 そして2009年2月より、元の「山本隆文」の名で芸能プロダクション「ジョリー・ロジャー」に2年ほど籍を置いていたが、目立つ活動は何も無いままで退所した。
2011年から2014年4月10日までの3年間は、ロケ弁やケータリングの仕出し会社「株式会社 Creative Mama」(目黒区)に勤務。
2012年11月11日に結婚。
1975年生まれ
- 五十嵐剛
- 伊東正美 (大田区大森出身)
- 大谷幸生
おおたに ゆきお。 1975年12月30日、札幌市生まれ。千葉県成田市育ち。O型。千葉県立成田北高校(部活は剣道部)卒業。 好きな小説:内館牧子『想い出にかわるまで』(1990年)。
映画『シュート!』、Vシネマ『今日から俺は ! !』に出演。 ジャニーズ退所後は、アメリカに留学。
その後、自衛隊に入隊し、沖縄に配属。 5年満期にて除隊後、沖縄県豊見城市に住みながら、沖縄の海で素潜りで魚を突く団体「突き團 (つきだん)」を立ち上げ、團長を務める。 水中銃、銛、全てが手作りなのが特徴。 また、「コルベット貝工房」のオーナーでもある。
2006年3月26日より、「パパ$コルベット」名義で、ブログ「コルベットと水中銃(水鉄砲)」も開設した。 - 金沢将種
かなざわ まさかず。 本名:金澤将種。1975年9月23日生まれ。横浜市出身。A型。愛称:かなす。趣味:バイク、サーフィン。 1991年3月に入所。 松岡昌宏とはお互いジャニーズに入る前から友人だった。
後に横浜で草野球チーム「Y・B・J」を結成。 結婚し、2008年に子供をもうけた。 2012年11月に横浜市から埼玉県戸田市へ転居したが、その後再び横浜市へ戻った。
1976年生まれ
- 木村伸一 (関西Jr.からの転籍)
- 斎藤恭央 (後の桜塚やっくん、植田浩望)
(左:20歳時。 右:「あばれヌンチャク」時代)
本名:齋藤恭央。1976年9月24日生まれ。横浜市鶴見区矢向出身。 横浜市立矢向小学校、同市立矢向中学校、日本大学高等学校、日本大学芸術学部映画学科演技コース卒業。 EXILEのUSA(本名:宇佐美吉啓)とは小・中学校時代の同級生。中学時代はサッカー部仲間でもあった。 また、同じ中学&サッカー部の2年先輩には、お笑い芸人「たいがー・りー」(本名:平井博)もいた。
実家の家業は横浜市鶴見区矢向の旋盤加工業「有限会社 齋藤製作所」で、2007年9月1日放送のバラエティ番組『エンタの神様』にて、社長である父親の顔写真と共に実家を宣伝した。
18歳の時に「15歳」と3歳若く偽ってジャニーズ事務所に入所。 KinKi Kidsのバックで踊ったこともあった。
ジャニーズ退所後は、19歳~21歳の3年間、俳優・新藤栄作と映画監督・中田信一郎主宰の「劇団無現 (後のアクティング・ラボ無現)」に入団して芝居の基礎を学ぶ。
1998年には、人力舎主宰のお笑い専門学校「スクールJCA」に入学。 そして1999年10月から2005年4月まで、お笑いコンビ「あばれヌンチャク」(所属:石井光三オフィス、業務提携:オフィス★怪人社)として活動。 その間、2000年にはアダルト専門チャンネル「パラダイスTV」にて、AV女優の尿を飲む番組『尿意の鉄人』のメインMCを務めた。
2005年より「桜塚やっくん」の芸名で女装芸人になり、翌2006年からは歌手活動も開始 (トップコート所属)。
2006年12月31日、小林幸子の応援ゲストとして『第57回 NHK紅白歌合戦』に出演し、持ち歌『1000%SOざくね?』の一部を歌唱。
2007年3月、「第44回(2006年度) ゴールデン・アロー賞」の新人賞に選ばれる。
2008年から2010年まで、「植田浩望 (うえだ ひろみ)」名義での俳優活動も並行して行う。
2010年10月、独立して個人事務所「めめじょ」を設立。 女装ビジュアルバンド「美女♂men Vlossom (後の美女♂men Z)」を結成したり、「日本女装協会」も立ち上げて会長を務めた。
同年12月9日発売の単行本『美女♂men』(青月社)にて小説家デビュー。
2010年7月末に、江東区有明のホテルで泥酔した有名私立女子大生に性的暴行を働いたとして、2011年3月24日に準強姦容疑で書類送検される。
2013年10月6日に熊本県荒尾市の「あらおシティモール」で開催されるコンサートにバンド「美女♂men Z」で出演するため、桜塚自らが運転するワンボックスカーにマネージャーを含めた5名が乗って移動していた際、小雨の降る10月5日午後4時50分頃、山口県美祢市東厚保町の中国自動車道下り線、美祢インターチェンジと美祢西インターチェンジ間、伊佐パーキングエリアを約2km過ぎた辺りの下り坂の右カーブにて、中央分離帯に衝突する単独事故を起こし、車外に出た所を後続車にはねられ、心肺停止状態に陥る。 美祢市立病院に救急搬送され、30分の蘇生手術が行われるも、同日午後6時16分、頭蓋骨陥没と心臓破裂により37歳の若さで急逝。 マネージャーの砂守孝多郎氏(55歳)も同じく車外に出た所をはねられ、即死。 残る3名の内、2名は軽傷を負った。
桜塚は、真家ひろみや高島忠夫と同じく、川崎市多摩区の高級公園墓地「春秋苑」に眠っている。 戒名は「禅徳院恭覺智聡居士」。 [1]、 [2]、 [3]、 [4] - 山田恭史 (10月21日生。O型。1992年4月5日に特待生として入所。京都から通い)
1977年生まれ
- 小野勝洋 (4月30日生)
- 木下宗重 (福岡から通い)
特待生。 福岡県立筑紫高校、久留米大学卒業。 大学時代は山岳部に所属していた。
2000年3月に大学を卒業した後、テレビドラマ『天才てれびくんワイド ザ・ドリームサーフィン』の最終週(2000年7月、NHK教育)にラズラル役で出演。
その後、警察官採用試験に受かり、福岡県警察本部の「街頭犯罪特別遊撃隊」に入隊。統括班長、警部補となる。 TBSの犯罪ドキュメント番組『激撮!密着警察24時!』シリーズの、「犯罪捜査最前線SP」(2011年9月28日)、「犯罪捜査の舞台裏SP」(2012年3月15日)、「犯罪捜査最前線SP」(2012年12月26日)にも出演した。 - 平俊之
- 竹村誠 (4月19日生。千葉県出身。O型。愛称:まーくん、まことくん。兄弟は姉1人、弟2人)
- 星英徳 (後の夏芽海)
(舞台『ANOTHER』(1993年8月)の天王洲・アートスフィアの楽屋にて。 左から堂本剛、星英徳、堂本光一)
(左が星。右は森田剛)
1977年11月24日、渋谷生まれ。原宿育ち。高校からは大田区中馬込に転居した。A型。164cm。愛称:のん、のんくん、ジャワ (動きがジャワ原人っぽかったから)。
兄弟は二卵性の双子の兄が1人。 両親は商店街で婦人服のブティック「STEP」を経営していた。 母親は元モデル (2006年11月19日に癌で逝去)。
渋谷区立千駄谷小学校、同区立原宿中学校、都立代々木高校卒業。 高校時代は4年間ずっと女優の京野ことみと同じクラスだった。 小学6年生の時に、東京大学教育学部附属中等教育学校の双生児枠と、東海大学付属相模中学校(後の東海大学付属相模高等学校中等部)を受験したが、2校とも落ちた。 なお、高校1年の終わりには通信制の東海大学付属望星高校への転入を考えて受験したが、不合格となった。
趣味は16歳から始めたサーフィン。
子供の頃は、東郷神社の池でザリガニ釣りをしたり、キディランドでミニ四駆を見たりして遊んでいた。 また、小学3年生から6年生までは剣道を習っていた。 中学では1年生からバレーボール部、2年生からバスケットボール部に入部した。
そして星が通っていた原宿中学校に、既にJr.になっていた前村友和が3年生の4月から転校して来て星の隣の席になったため、前村に頼み込んでジャニー喜多川を紹介してもらい、1992年4月25日にジャニーズ入りした。 星が当時住んでいた原宿のマンションの目の前には橋幸夫の家があり、橋幸夫の息子とも中学の同級生で仲が良かった。 そして、Jr.時代に仲の良かったメンバーは、森田剛と古屋暢一だった。
ジャニーズ時代は、まず入所早々に前村と共に光GENJIの当て振りバックバンドに抜擢。 更に「KinKi Kids」の初期候補メンバーであり、「J-Eleven」のメンバーとしても活動した。
テレビドラマ『ツインズ教師』(1993年、テレビ朝日、加茂利彦役)、 映画『200X年 翔』(1992年)、『シュート!』(1994年、新田伸一役)、 ミュージカル『ANOTHER』(1993年)などに出演し、 バラエティ番組『ウンナン世界征服宣言』(1994年、日本テレビ)ではコントグループ「S・O・S」のメンバーとしても活動。
更に、iDC 国際デジタル通信「0061」(桜井幸子と共演)、P&G「クレアラシル フェイスウォッシュ」のCMにも出演した。
18歳になるかならないかの1995年後半に、女優・榎本加奈子(当時中学3年生)との交際がJr.仲間のチクりによってジャニー喜多川に発覚し、仕事を干されてレッスンにも呼ばれなくなり、実質解雇となった。 なお、星は女性との初体験は高校1年で、相手は中学2年から付き合ってた同級生の女性だったと後に告白している。 また、「テレビドラマ『ツインズ教師』で共演した佐藤藍子から付き合って欲しいと告白されたけど断った」とも語っている。
1996年、母親の知人の紹介でモデル事務所(「キャロットに所属」説は誤報)に所属し、雑誌のファッションモデルとして活動。 テレビドラマ 『オ・ト・ナにして フクチャン』 (1996年、テレビ朝日)や、 週刊マイルームガイド、アステルPHS、日産自動車「ウィングロード」、ベネッセコーポレーション、京成スカイライナーなどのCMにも出演した。
1998年、「太田プロダクション」に移籍し、「夏芽海 (なつめ かい)」の芸名で俳優に転身。 この芸名は、趣味がサーフィンで海が好きだったことと、海と言えば夏、だから「夏に芽が出るように」との思いで自分で命名した。
テレビドラマ 『森村誠一の終着駅シリーズ 9 ~ 駅』 (1998年11月28日、テレビ朝日。大串竜也役)、
『走れ公務員! POLICE WOMAN』 第7話 (1998年12月1日、フジテレビ。目黒正樹〔後の仁科克基〕と共演)、
『国産ひな娘 FILE24 「タカラものが眠る島」』 (1999年9月15日、テレビ東京)、
『はるちゃん 4』 (2000年5月26日 - 6月13日、フジテレビ。第40~52話にて、少年院上がりで板前見習いの大輔役)、
『傷だらけのラブソング …for your sanctuary』 第7話 (2001年11月20日、フジテレビ)、
『忠臣蔵』 第1話 (2004年10月18日、テレビ朝日)、
『牟田刑事官事件ファイル (32)』 (2005年4月30日、テレビ朝日)、
バラエティ番組 『feature EGG ~麗しき次世代の男たち~』 (2000年11月、スカイパーフェクTV! Ch.748「LaLa TV」。星の密着特集)、 『ザ・ジャッジ! ~ 得する法律ファイル』内の再現VTR (2002年4月、フジテレビ)、
ライトリンク・ミュージック公演『男vs女!格闘ミュージカルコメディ よごれた恋』 (1999年3月24日 - 28日、新宿・シアターサンモール。小太郎役)、
トラウマ進化論公演 『改札口から見上げる空』 (2000年11月13日 - 15日、こまばアゴラ劇場。主演・義一 (ぎいち) 役)、
Vシネマ 『パチンコバトル・ロワイアル』 (2001年8月25日)に出演した。
一方で、1990年代後半には「パイレーツ」の浅田好未との交際が発覚 (中山エミリカップルとの東京ディズニーランドでのWデートが週刊誌『FRIDAY』に掲載)。 とにかくジャニーズ時代から超の付く遊び人で、六本木などで常に夜遊びをし、ノリの軽さと口の上手さで次々と女性タレントに手を出していた。 榎本加奈子と浅田好未以外にも、小室哲哉と破局して精神的に弱り切っている最中の華原朋美にまで接近。 更に牧野田彩(後のAV女優・AYA)、松田純、下川みくになど、錚々たる女性タレントと付き合い、全て男女関係にあったことを、後に星本人がネット配信(ツイキャス、ふわっち)で暴露している。 中でも一番好きだったのは、榎本とのこと。
また、ドラマ『ツインズ教師』で共演した浜崎あゆみとも、浜崎の自宅に遊びに行くほどの仲だったが、2回告白し、2回とも振られている。 ただ、浜崎とエイベックスの松浦勝人を引き合わせたのが星だったため、もし星が居なければ浜崎はスター街道を歩むことは無かった。 浜崎はその後、レコード大賞を3度も受賞する大物アーティストになったため、星は日本の音楽史を変えるきっかけとなった重要なキーパーソンに当たる。
1999年10月には、太田プロの先輩・彦摩呂に誘われて創価学会に入会。 2000年10月1日発売の学会の青年部対話ビデオ『Future ~無限の未来へ~』にも出演した。 この他、元サッカー選手の前園真聖とも親しい関係にあった。
2005年に芸能界を引退。 その後は、1年だけマンションデベロッパー「ABCホーム」(2009年8月で倒産)に入社し、不動産営業でファミリーマンションを販売。数百人居た営業マンの中で第3位の売上成績を収めたこともあった。
その後はロケバスの会社に入社し、大型二種免許を4回受けて取得した後、女性ファッション誌のモデルやスタッフを乗せるマイクロバスの運転手を2年半経験。 そしてトラックの運転手に転身し、結婚して男児を一人もうけた。
トラック運転手だけでも数社変わり、延べ約9年くらい経験した。 2018年からはシダックスグループの大新東株式会社・有明営業所に入社して、ホテルとディズニーランド間の送迎マイクロバスの運転手に。
その後離婚して妻子と別れ、同社も退社。 2020年11月からは、タクシーの運転手も2~3ヶ月だけ経験した。
2021年3月15日、友人のツイキャス配信者・はやとぅーの枠に星が登場。 翌16日、星も自分のアカウントを取得してツイキャス配信を開始した。 同年4月5日からはふわっちでも配信を開始。
なお、1995年公開のシガニー・ウィーバーの主演映画『コピーキャット』にて、警察署内で刑事に銃を突きつける中国人男性(演:Kenny Kwong)の顔が、星に酷似している。 - 前村友和 (後の結貴友和 → 結城友和 → 天馬唯仁 → 前村友和 → 友和)
1977年8月18日生まれ。兵庫県尼崎市西立花町出身。AB型。身長:177cm。 尼崎市立大庄北中学校 → 都内の中学校 → 渋谷区立原宿中学校 → 某中学校卒業。 趣味:ジェットスキー、スノーボード、バレーボール、テレホンカード収集。 特技:舞踊、格闘技。4級特殊船舶の免許を所持。 ジャニーズ時代の愛称:Z、カズ。
元々は3歳上の兄と共に関西で大衆演劇の俳優をしていたが、中学2年生だった1991年にオーディション無しの特待生としてジャニーズ事務所に入所。 同年11月25日に1人で上京し、都内の親戚の家に住みながら、ジャニーズのレッスンに通い始めた。
1992年3月に、ジャニーズ事務所の原宿の合宿所に転居。 そのため、中学3年生からは更に渋谷区立原宿中学校へと転校した。
しかし、1992年中に早くもジャニーズ事務所を退所し、合宿所からも退去。 学校も別の中学校に転校した。
その後はしばらく芸能界から離れていたが、2004年から俳優の小沢仁志が所属する芸能事務所「MGP -MOVIE GANG PRODUCTION-」に入社し、マネージャー業、運営管理を務めるかたわら、自らも「結貴友和 (ゆうき ともかず)」の芸名で俳優となり、Vシネマの極道作品を中心に活動。 やがて大衆演劇俳優としての活動も再開。
2011年、芸名を「結城友和」に改名。
2013年よりモデル活動も開始。
2016年3月、芸能事務所「ヴィランズ」に移籍。
2017年、師匠でもある小沢仁志の名前から一文字を貰い、芸名を「天馬唯仁 (てんま ゆいと)」に改名。
2018年1月、本名の「前村友和」名義で芸能事務所「BIG MOUNTAIN」に移籍。
同年、芸名を「友和」に改名。
[1]、 [2]、 [3]、 [4] - 渡辺智 (後の渡辺智隆)
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わたなべ とも。 旧芸名:渡辺智隆、本名:渡邊智隆。1977年6月24日生まれ。大分県出身。B型。身長:163cm、体重:65kg。愛称:智くん。
年少時より、JACこと「ジャパンアクションクラブ (後のジャパンアクションエンタープライズ)」に入り、主に後楽園の野外劇場で活躍していた。 そして、小学生の段階でJACから脱退してフリーのスーツアクターとなる。 日本で唯一の技「キリモミ落ち」を武器に、「渡辺智隆」名義で数々のヒーローショー、舞台、映画に出演。 テレビドラマ『鉄甲機ミカヅキ』(2000年10月23日 - 2001年3月24日、フジテレビ)にも出演していた。
2000年秋、ミュージカル『MILLENNIUM SHOCK』にスタント出演したのを機にジャニー喜多川にスカウトされ、「23歳」という異例の高齢でジャニーズ事務所入り。 ジャニーズ史上、最も遅い年齢でJr.入りした人物。 当初は「渡辺智隆」名義のままで活動していたが、年齢を3歳若く詐称するため、翌2001年夏より「渡辺智」の芸名を使って活動開始。 抜群の身体能力を買われ、アクロバットや殺陣のシーンを専門に任されていたJr.だった。
2003年10月9日~11日のNEWSの台湾コンサートへの出演を最後にジャニーズ事務所を退所。
その後は芸能事務所「セーフティー」に移籍し、元の名前「渡辺智隆」名義に戻して再びスーツアクターとなる。 映画『仮面ライダーTHE NEXT』(2007年)、『仮面ライダー × スーパー戦隊 スーパーヒーロー大戦』(2014年)、『烈車戦隊トッキュウジャー VS キョウリュウジャー THE MOVIE』(2015年)などに出演。 また、東京ドームシティアトラクションズ内の仮設ステージ「スカイシアター」や、屋内劇場「シアターGロッソ」でのヒーローショーでは、出演だけでなくアクション監督も務める。
特撮ヒーロー雑誌『HERO VISION』のVOL.32(2009年4月発売号、東京ニュース通信社)にも掲載された。
1978年生まれ
- 猪熊務 (6月22日生。AB型。中学時代の部活は美術部。森田剛と仲が良かった)
- 内田栄樹 (12月6日生。東京都出身。A型。愛称:うった)
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- 国分博
- 鈴木淳也
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1978年4月29日生まれ。川崎市中原区上小田中出身。A型。神奈川県立川崎高校卒業。
ジャニーズに入所する際に「1979年生まれ」と申告し、自ら1歳若く詐称していた。
父親がクラシックバレエの講師で、幼い頃から父にバレエを習っていた。
秋山純主演のミュージカル『Gang』(初演。1993年2月4日 - 21日、博品館劇場)にチータ役で出演したことで、下記の安田麻人と共に2人揃ってタップダンスを習得。 以来2人ともテレビやコンサートでタップダンス要員として活躍した。
2000年、「チャイコフスキー記念東京バレエ団」に入団。 以降、ヨーロッパ、中南米を中心とした海外公演にも参加した。
2008年、同団を退団し、フリーのダンサーに。
2013年、川崎市川崎区にてバレエスタジオ「J Ballet Works」を設立し、バレエ教室を開講。
2016年11月、「NOAバレエスクール 池袋校」にてバレエ入門クラスを開講。
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1978年4月29日生まれ。川崎市中原区上小田中出身。A型。神奈川県立川崎高校卒業。
ジャニーズに入所する際に「1979年生まれ」と申告し、自ら1歳若く詐称していた。
- 田島俊明
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1978年5月10日生まれ。O型。 中学のサッカー部の後輩がJr.で、その紹介で事務所入り。
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- 中野俊介
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1978年11月10日生まれ。東京都多摩市出身。O型。多摩市立東愛宕中学校卒業。 同中学の出身者にはタレントのローラも居る。
中学3年生だった1993年10月に、同じ中学の同級生・国分博の紹介で事務所入り。
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- 松井宏治
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1978年1月30日生まれ。 1992年12月に入所。 後に建築現場作業員に。
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1979年生まれ
- 小川直希
- 金子圭悟 (8月21日生。東京都出身。O型)
- 椛嶋尚之 (福岡から通い。『POTATO』1992年7月号の表記「椛島」は誤植)
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かばしま なおゆき。 1979年8月7日生まれ。福岡市出身。AB型。愛称:かばちゃん。
姉の応募で1992年3月にジャニーズに入所。 憧れていた先輩:木村拓哉。
福岡市中央区・柳橋連合市場の「(有)河内屋青果」を営む両親のもとで育つ。 埼玉県川越市の東京国際大学 経済学部 経済学科卒業。 その後、地元の福岡に戻り、自動車用品販売会社「マルカサービス株式会社 福岡営業所」に就職。 幼少期から熱狂的な西武ライオンズファン。
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かばしま なおゆき。 1979年8月7日生まれ。福岡市出身。AB型。愛称:かばちゃん。
- 河内謙吾 (章吾の兄)
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かわち けんご。 1979年12月1日、熊本県生まれ。東京都育ち。O型。
熊本に住んでいた祖父は、瑞宝章を受章した人物。 - 神田和也 (12月3日生。A型。1992年10月入所。中学校での部活は陸上部。ジャニーズ時代に仲が良かったのは長瀬智也)
- 神原和夫 (元・子役俳優。1992年に入所。1993年3月14日に関西Jr.に転籍)
- 喜多見英明
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1979年3月19日生まれ。品川区東大井出身。A型。愛称:キー様。 小学6年生だった1991年2月にジャニーズに入所。
1996年末にジャニーズを退所して「レッシング」へ移籍し、1997年2月1日付で活動再開。 同年5月に「シアターVアカサカ」にてファンイベントを行う。 ファンクラブ「KITAMI HIDEAKI F.C」も発足し、同年夏にはファン参加の旅行ツアーも開催した (翌1998年8月のツアー先は浜名湖)。
そして、俳優としてテレビドラマ『金のたまご』(1997年夏、TBS)、『美少女H』の第11話「My Dear Boy」(1998年6月29日、フジテレビ)、 映画『心霊 2 「踏切に立つ少女」』(1997年7月26日)、『ザ・ハリウッド』(1998年10月24日、主演)に出演したり、バンド「the Jaguar (ザ・ジャギュア)」で活動した。
東海大学付属望星高校時代の同級生・友人であり俳優の佐々木卓馬と共に、2003年に地元の東大井でアパレル会社「Seguick(セグイック)」を設立。 デザイナー兼プレスを務め、「Seguick」や「POCYO SPORT (ポチョ・スポーツ。POLO SPORTのパロディ)」といったファッションブランドを、2000年代後半まで展開していた。
2022年12月29日、元Jr.の親友・国分博と共にYouTubeチャンネル「全力!生存確認」を開設。[1]、[2]、[3]
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- 木下健明
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きのした たてあき。 1979年5月7日生まれ。東京都出身。A型。 小川直希とは中学の同級生。
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- 小林慎矢 (「慎也」と誤植された資料あり。 小林勇太の兄。12月2日生。荒川区町屋出身。A型)
- 筋野久之
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すじの ひさゆき。 神奈川県座間市立野台出身。O型。
2000年3月に「文化服装学院 ファッション工芸専門課程 ジュエリーアクセサリー科」を卒業してジュエリー職人となる。 2005年に渋谷区代々木にて、工房「代々木の小さなジュエリーアトリエ」を設立し、オリジナルジュエリーブランド「metal create」を手がける。
「第1回 TOKYO BOYS COLLECTION」(2013年4月26日、渋谷Club asia)、および「第2回 TOKYO BOYS COLLECTION 2013 SUMMER」(2013年8月28日、赤坂BLITZ)にモデルとして出演。 同コレクションには、元・関西Jr.の大倉士門もモデルとして出演。 更に元Jr.である津久井佑貴も、第1回で運営側のファッションディレクターを務め、第2回ではモデルとして出演。
2012年、専修学校准教員の修了証を取得。 以降、文化服装学院の非常勤講師を務める。
2013年12月24日、工房を運営する事務所として、「株式会社 Suzy」を設立。
2014年2月14日、「代々木の小さなジュエリーアトリエ」のネットショップをオープン。
2017年2月14日、事務所、工房を座間市の実家に移転。 同地では彫金教室も開講。
2019年9月、事務所を中野坂上のレンタルオフィスに増設。
好きな言葉は「やらないで後悔よりやって後悔」、「“奴隷の平和”か“王者の戦争”か」。 [1]
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すじの ひさゆき。 神奈川県座間市立野台出身。O型。
- 鈴木康哲
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すずき やすのり。1979年7月24日生まれ。東京都北区西ヶ原出身。B型。愛称:ヤス、スーさん、ヤッさん。北区立滝野川第七小学校、同区立田端中学校卒業。
1994年11月13日に事務所入り。1998年11月中旬に退所。 その後はイトーヨーカドーでアルバイト。 原宿のファミリーマートでアルバイトしていたという目撃談もあった。 なお、一部で「美容師になった」という情報があるが、これは同姓同名の別人と混同した誤情報。
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すずき やすのり。1979年7月24日生まれ。東京都北区西ヶ原出身。B型。愛称:ヤス、スーさん、ヤッさん。北区立滝野川第七小学校、同区立田端中学校卒業。
- 丹治直人
- 近岡健司
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1979年10月16日生まれ。調布市出身。O型。168cm、66kg。
後にサッカー選手に転身。 中学時代は「三菱養和」でプレーし、1995年(15歳)に高校を中退してイタリアへ留学。セリエA「ACペルージャ」のプリマヴェーラ(21歳以下で組織されている下部組織。ユース、練習生)のディフェンダーに。 その後6年間在籍するも芽が出ず、日本への進出を考えていたペルージャの公式スポーツスポンサー「ガレックス」に抜擢された事で選手を引退し、2000年11月に帰国。 21歳の若さでペルージャのアジアマーケット担当に就任し、中田英寿のマネージメントなどをしていた。 しかし、選手への夢も捨てきれず、2001年2月に「東京ヴェルディ」の入団テストを受けるも、結果は不合格だった。
2006年にはタレントの森 泉との交際が発覚して話題となる。 その後、渋谷区千駄ヶ谷にて「株式会社KMCインターナショナル」を設立し、渋谷区神宮前にて、イタリアサッカー代表選手トッティ・ビエリ・ブロッキがプロデュースするイタリアファッションブランド直輸入ショップ「PRINCIPE prive (プリンチペ・プリヴェ)」を出店。 更に、ルーベン・トメッラがデザインするイタリアの高級腕時計ブランド「GaGa MILANO」(since 2004)の日本正規総代理店「有限会社 GaGa JAPAN」も設立し、東京と大阪に出店。
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- 日吉圭吾
- 真庭力也
(森田剛と)
まにわ りきや。 1979年7月24日、東京都豊島区生まれ、千葉県市川市育ち。B型。私立関東第一高校卒業。趣味はサッカー観戦。 社会人サッカーリーグ「カナリアサッカーリーグ」のチーム「C.BANK」に所属。 - 三山耕平 (3月23日生。品川区出身。1993年9月入所)
- 武藤五郎
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1979年5月9日生まれ。埼玉県さいたま市出身。O型。 姉の応募によりジャニーズへ入所。
後に行政書士となり、埼玉県鴻巣市にて「武藤行政書士事務所」を開設。 また、2003年10月からは埼玉県鴻巣市の「NPO法人 就労支援スマイルワーク」の代表理事に。 青少年の社会復帰などをテーマにした講演活動も行う。
更に2013年4月には、同県桶川市にて障害福祉サービス会社「株式会社 チャレジョブ」を設立し、代表取締役社長に。
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1979年5月9日生まれ。埼玉県さいたま市出身。O型。 姉の応募によりジャニーズへ入所。
- 安田麻人
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1979年5月8日生まれ。新宿区市ヶ谷加賀町出身。B型。
ジャニーズ事務所に入所する前の1991年2月5日に、舞踊歌謡のCDシングル『少年無法松音頭』にて歌手デビューを果たす。小学5年当時の甲高い声で歌唱している。
ジャニーズ入所後は、ミュージカル『サウンド オブ ミュージック』(1992年3月3日 - 4月22日、青山劇場)に、トラップ家の子供・フリードリッヒ役(秋山純とのWキャスト)で出演し、中村繁之と共演。
更に、秋山純主演のミュージカル『Gang』(初演。1993年2月4日 - 21日、博品館劇場)にベアー役で出演したことで、上記の鈴木淳也と共にタップダンスを習得。 以来2人ともテレビやコンサートでタップダンス要員として活躍した。
安田はその後、ミュージカル『POWER for the PEACE ~ 僕たちの地球を守ろう』(1995年8月11日 - 9月9日、八王子いちょうホール、他)にWキャストの勇太役(南極組)で出演。
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1979年5月8日生まれ。新宿区市ヶ谷加賀町出身。B型。
関連項目
- ジャニーズJr.
- ジャニーズJr. 一覧 (五十音検索)
- ジャニーズJr. (関東組) 一覧
- 関西ジャニーズJr. 一覧
- 名古屋ジャニーズJr. 一覧
- 元気Jr.
- ゲスト参加者
- 『ジャニーズJr.名鑑』
- ジャニーズ事務所 歴代所属者
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