ジャニーズJr. 一覧 (関東組、1960年代生まれ)
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生年順 & 各五十音順
1960年生まれ
- 揚石浩吉
あげいし こうきち。 1960年8月15日生まれ。江戸川区北小岩出身。江戸川区立中小岩小学校、同区立小岩第三中学校卒業。 同中学の一年後輩にはJr.の西谷耕二も居た。
芸能界引退後は家業を継いだ。(内装工事会社「(有) 揚石内装」、防災関連品販売会社「(有) アゲイシ」) - 浅田敏行 (後のT-ASADA)
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1960年5月24日生まれ。世田谷区出身。世田谷区立多聞小学校、同区立新星中学校卒業。 趣味:レコード鑑賞、テニス。 テニスは都大会まで出場した。 1972年〜1976年に、「ジャニーズ・ジュニア 第3期生」として所属した。
1980年からは「株式会社 BMC」にダンサーとして所属し、映画『ハイティーン・ブギ』(1982年)にてたのきんトリオと共演。 舞台『アニーよ銃をとれ』(1983年9月14日 - 27日、シアターアプル)では井上純一と共演した。
そして1985年から1997年2月28日までは、西条満の会社「株式会社 ダンシングオフィス西条」に、やはりダンサーとして所属した。
佐藤敦啓のソロコンサートのバックダンサーも務めた後、1997年より「T-ASADA」に改名して振付師となり、同年8月8日には「(有)アサダ・カンパニー」を世田谷区三宿に設立。 その後、ダンス教室「T-ASADA DANCE PROJECT」を渋谷区神宮前で開設した(2006年3月からは渋谷区松濤に移転)。
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- 池田洋
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いけだ ひろし。 1960年6月8日 (6月4日生まれと書いてある資料は誤植)、品川区生まれ。横浜市戸塚区育ち。
横浜市立大正小学校、同市立大正中学校卒業。 趣味:キーホルダー集め、アイススケート。 特技:野球、アイスホッケー。 ジャニーズ・ジュニア 第3期生。 俳優の井浦新に似ていた。
- 杉浦城之
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すぎうら しろゆき。 1960年8月18日生まれ。趣味:釣り、競馬。
後に、墨田区東駒形のバー「Coral Reef (コーラルリーフ)」のマスターに。 この店の常連客には、振分親方(高見盛精彦)が居る。
『人気者から学べ そこホメ!? SP』(2016年4月26日、フジテレビ)に一般人として出演。
『週刊文春』(2023年5月25日号)にて、ジャニー喜多川からの性的虐待を告発。 - 宮崎勝
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1960年11月24日、神奈川県生まれ。埼玉県富士見市育ち。
富士見市立鶴瀬小学校、同市立富士見台中学校卒業。 愛称:大仏くん。 ジャニーズ・ジュニア 第3期生。
中学生の時に、「ジャニーズ事務所のマネージャー」を名乗る男にスカウトされてジャニーズ入り。 (だがこの男性は実際はマネージャーでも何でもなく、タレントの斡旋を行ってジャニーズ事務所のマネージャーになろうとしていた堀越高校の学生だった。 なお、この男性は後に豊川誕も同じ方法でジャニーズ入りさせている)
2016年12月23日、浅草のカラオケスナック「ちゃま」で開催された豊川誕のクリスマス会に客として参加し、豊川と約40年ぶりとなる再会を果たした。
1961年生まれ
- 岡本祐幸
1961年3月2日生まれ。品川区出身。品川区立京陽小学校、同区立平塚中学校卒業。 小学校の5学年先輩には永田英二が居た。 中学時代はサッカー部に所属。 趣味:キーホルダー集め。バック転も出来るJr.だった。 - 小川浩
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1961年2月24日、千葉県生まれ。東京都大田区育ち。 大田区中央の旭通りで寿司店「鮨光 (すしみつ)」を営む家庭に生まれる。
大田区立大森第二小学校(後の開桜小学校)卒業。 ジャニーズ・ジュニア 第3期生。
Jr.仲間の小野寺伸定と共にホリプロに移籍し、バンド「ドルフィン」のベーシストとして1976年6月1日にレコードデビュー。 - 近藤重成
1961年2月28日生まれ。横浜市神奈川区出身。横浜市立子安小学校、同市立浦島丘中学校卒業。 中学時代は剣道部に所属。 趣味:切手集め。特技:スポーツ。 - 田淵英人 (後の葉山ひでと)
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たぶち ひでと。 1961年3月16日、東京都保谷市(現:西東京市)出身。O型。
苗字の漢字が「田渕」と書かれている資料も存在するが、正しくは「田淵」。
保谷市立碧山小学校卒業。 ジャニーズ・ジュニア 第3期生。 兄弟は兄が一人。
ジャニーズ退所後は、倉本聰に師事し、脚本やドラマ制作を学ぶ。
そして、国会議員である父親の公設秘書となり、男女雇用機会均等法の制定を機に、子育て支援事業を自ら手掛け、民間企業の保育園参入の黎明期を支えた。
2001年10月1日、民間駅前保育園を展開する「ビーフェア株式会社」を設立し、代表取締役会長を務める。
2014年に結婚。 同年2月10日に行われた披露宴には、来賓として元内閣総理大臣の菅直人が招かれた。
2014年8月8日、田淵の会社「ビーフェア株式会社」が、「株式会社 京進」の子会社となる。
2019年3月、「葉山ひでと」のペンネームで幻冬舎より詩集『ばあちゃんはこっちの百円で米を買う』を上梓。
好きな言葉は「気宇壮大」。 - 中川昌哉
1961年3月14日生まれ。江戸川区出身。江戸川区立上小岩第二小学校、千代田区立九段中学校 (後の千代田区立九段中等教育学校)、立教高校 (後の立教新座高校)、立教大学卒業。 中学時代は写真部に所属。同中学の一年後輩にはJr.の古川英樹も居た。 趣味:コイン集め、ロック音楽鑑賞。 特技:野球、卓球。 - 古川英樹
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1961年7月12日生まれ。葛飾区出身。千代田区立九段中学校(後の千代田区立九段中等教育学校)卒業。
同中学の一年先輩にはJr.の中川昌哉も居た。 趣味:洋画鑑賞。
1962年生まれ
- 天野光男
1962年7月14日生まれ。大田区出身。 大田区立矢口西小学校、同区立矢口中学校卒業。 小学校時代はポートボール部に所属。 - 西谷耕二
にしたに こうじ。1962年1月31日、千葉県習志野市生まれ。千葉市稲毛区育ち。 千葉市立千草台小学校、同市立千草台中学校を経て、江戸川区立小岩第三中学校卒業。 小岩第三中学の一年先輩にはJr.の揚石浩吉も居た。 小学校時代はポートボール部、小岩第三中学ではブラスバンド部に所属。 趣味:レコード鑑賞、トランペット。
2006年6月18日、千葉県佐倉市にて、防水工事会社「株式会社ハイエスト」を設立。 好きな言葉は「有言実行」。
1963年生まれ
- 岩崎富美雄
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いわさき とみお。 本名:同じ。1963年10月28日生まれ。中野区生まれ、板橋区高島平育ち。
愛称:とんちゃん。 ジャニーズ・ジュニア 第4期生。 ジャニーズ在籍時は「白虎隊」のメンバーとして活動。
趣味:漫画を描くこと。
ジャニーズ退所後は、1980年代後半にバンド「CLUB RUDE'S (クラブ・ルーズ)」を結成。 初期メンバーには、後に歌手としてブレイクするCharaがキーボードとして参加していた。
やがて「(株)バンザイ」(通称:BANZ。 後の「(株)ミュータント」)に所属し、1992年5月27日に東芝EMIより『Dear Robert 〜 親愛なるDr.ロバート様へ』でCDデビュー。 更にその後「オー・エンタープライズ」に移籍して、1994年11月10日にパイオニアLDCよりソロでのCDデビューも果たした。
なお、舞台『オイディプス王』(1976年5月、演出:蜷川幸雄)の公演パンフレットでは「小石崎富美雄」と表記されているが、これは当時のパンフ編集者が、下書きの紙に縦書きされた「岩崎」という漢字を「小石崎」と読み間違えて誤植したものであり、「本名が小石崎」という訳ではなく、本名も岩崎姓である。 そもそも日本に「小石崎」なる苗字は一軒も存在しない。
シングル- Dear Robert 〜 親愛なるDr.ロバート様へ c/w LOVE+FREEDOM
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(1992年5月27日) 「CLUB RUDE'S」名義
- 嘘つきは踊れない c/w HAZAMA MAN (1992年8月26日)
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「CLUB RUDE'S」名義。 A面曲は加藤和彦プロデュース。
- 愛をちょうだい c/w 気にしちゃいないよ (1994年11月10日)
- 天気雨 c/w ウツクシい風景(せかい) (1995年5月24日)
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A面曲は日本テレビ『ダウンタウンDX』エンディングテーマ。
- おまえにチュー c/w さかな (1995年10月25日)
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A面曲はテレビ東京『ASAYAN』のオープニングテーマ。
岩崎本人が作詞作曲。編曲はホッピー神山。
- DANCEがしたい 〔Radio Mix〕 c/w 抱きしめたい (1996年5月22日)
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A面曲は東京MXTV『ストバスフリーク!』エンディングテーマ。
- 結構つらいです c/w だからI NEED YOUR LOVE (1996年11月13日)
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A面曲はテレビ朝日『爆走Ponchies』オープニングテーマ。
- おまえにチュー (1995年11月22日)
- Dear Robert 〜 親愛なるDr.ロバート様へ c/w LOVE+FREEDOM
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いわさき とみお。 本名:同じ。1963年10月28日生まれ。中野区生まれ、板橋区高島平育ち。
愛称:とんちゃん。 ジャニーズ・ジュニア 第4期生。 ジャニーズ在籍時は「白虎隊」のメンバーとして活動。
趣味:漫画を描くこと。
- 宮田〇〇
- 山口裕章
1963年7月3日生まれ。東京都出身。堀越高校卒業。 身長:176cm、体重:58kg。 ジャニーズ退所後は「文学座」に入団し、舞台俳優として活動した。 - 渡辺和晃
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結婚後の本名:高橋和晃。 1963年4月10日生まれ。世田谷区出身。 O型。 堀越高校を経て、コロラド州立大学ボルダー校を1983年に卒業。
元々、子役俳優としてテレビドラマ『ジャンボーグA』や『ファイヤーマン』に出演していたが、1976年に「ジャニーズ・ジュニア 第7期生」として入所。
ジャニーズ事務所を退所後は「第一プロダクション」に入社し、第一制作部 制作三課の課長となり、森口博子と、桜っ子クラブの森田淳奈のチーフマネージャーを担当。 更にその後は、2001年までバーニングプロダクション傘下の芸能事務所「スタッツ」の社長となり、立河宜子、「deeps」、「pool bit boys」などを世に送り出した。
2006年から2008年まで「株式会社MOTH」でチーフマネージャー、2008年から2010年まで「株式会社ランウェイフィールド」でのマネージャー、取締役を務める。
2010年からは「株式会社OPUS」の取締役(CEO)に就任し、小泉麻耶、新芽歩、usa☆usa少女倶楽部、ティーンズ☆ヘブンなどの女性アイドルを中心としたマネージメントを行う。
その後OPUSは、2011年より一時、老舗音楽制作会社「ロリーポップ」に吸収されていたが、翌2012年4月、マネージメントしていたタレントたち(小泉麻耶以外)を引き連れて、芸能事務所「株式会社 エアリーズエンタテインメント」を東池袋に設立。 新たに水月桃子、ライムベリー、クリケッツ、神崎凛、ミルキー☆クラウンなどを手がけた。
好きな言葉は「有言実行」。 [1]、 [2]、 [3]、 [4]
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1964年生まれ
- 西条昇
- 高木洋一
- 古川清隆
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※ 「古川清盛」と誤植されている資料あり。
1964年6月30日生まれ。世田谷区出身。趣味:キーホルダーと切手収集。
テレビドラマ『雲のじゅうたん』(1976年、NHK総合・連続テレビ小説、少年時代の稲葉誠役)、『小さなスーパーマン ガンバロン』(1977年、日本テレビ、“デスク”こと大場真一役)に出演。 「ジャニーズ少年団」にも参加した。
1965年生まれ
- 池田孝裕
(全て布川敏和と。 上段右側の写真は『週刊セブンティーン』1984年4月17日号)
川崎市川崎区出身。 B型。 布川敏和の中学の同級生 (川崎市立南大師中学校)。 中学3年(1980年)の12月に布川を誘って一緒にジャニーズ事務所へ履歴書を送り、二人揃って合格。『ザ・ヤングベストテン』などに出演した。
ジャニーズ退所後は、調理師免許の取得を目指しながら、うどん屋でアルバイトをしていた。 その後、布川の父親の中古車販売会社「有限会社 プラネットオート」に勤め、布川の父親が亡くなった後は同社の社長となった。 趣味はサーフィン。
1980年代には、アイドル雑誌に「布川敏和の親友」として何度か布川と一緒に掲載されたことがある他、2004年5月4日放送のTBS『はなまるマーケット』に布川がゲスト出演した際にも、池田の写真が紹介された。 また、布川のブログでも、やはり写真付きで紹介されている。 - 岩井浩司
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いわい こうじ。 1965年11月5日生まれ。 172p、57kg。 テレビドラマ『3年B組金八先生 (第2シリーズ)』で活躍。
第4話「人助けカンパ事件」でメイン。
特技:サッカー、エレキギター、料理、カマキリの真似。 好きな芸能人:永島敏行、田中邦衛、石野真子。 好きな教科:英語。 苦手な教科:理科。
アイドル雑誌『月刊TVスターランド』(1981年1月号)では、ひかる一平らと共に表紙を飾った他 (右下に写っているのが岩井)、「ニュー金八3人組」の1人としてピンナップ写真にも採用された。
- 川井康徳
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後の本名:藤谷康徳。 退所後は、女優・浅野温子のマネージャーを経て、ソニー・ミュージックアーティスツの俳優部門「SMAエンタテインメント」のマネージャーに。
好きな言葉は、「人ならざるものから学ぶ」、「愚痴・悪口を言うな、言い訳をするな」。
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後の本名:藤谷康徳。 退所後は、女優・浅野温子のマネージャーを経て、ソニー・ミュージックアーティスツの俳優部門「SMAエンタテインメント」のマネージャーに。
- 河村直人
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1965年12月28日生まれ。 既婚で子供も居る。
中学生の時、芸能界に憧れて歌や踊りのレッスンを重ね、オーディション番組『スター誕生』(日本テレビ)に出場するも、合格には至らず。
1983年、17歳の時にジャニーズ事務所に所属。 渡辺プロダクションでボーカルトレーニングを受けながらタレント活動をしていた。 (「ジャPAニーズ・ジュニア」に参加したり、フジテレビ・月曜ドラマランド『胸さわぎの放課後シリーズ』、TBS『8時だョ!全員集合』などに出演)
1985年より、ジャニーズ事務所に内緒で東京ディズニーランドでのダンサー活動を開始。 その後、同テーマパークのトップダンサーとなって活躍し、多くのファンを掴む。
1986年、20歳でジャニーズ事務所を退所。
東京ディズニーランドでの活動と並行し、雑誌やCMのモデルとして「クリエートジャパンエージェンシー」に所属。 更に、『夏鳥』や『男の美学』、『君と逢えた夏』といったオリジナルソングを作って、シンガーとしてライブ活動を行ったり、2004年からは東京ディズニーランドのダンサーたちで結成された自主公演ダンスユニット「道 (TAO)」にも、「Naoto」名義で参加している。
2005年12月14日や2006年9月23日には、新宿アート・プレイスにて、元・東京ディズニーランドダンサーの青柳勝大郎(あおやぎ しょうたろう。後の中島勝大〔なかじま しょうだい〕。本名:青蜊F志)とのジョイントLIVEも行っている。 そして2009年7月には1stソロアルバム『Bella Notte』もリリースした。
自身のホームページ「Naoto's NET」では、自らの歌い踊る映像を公開。 ダンススクール「浦安ダンスパーク」では講師もしている。
2010年7月9日からはブログ「Naotoの気まぐれ・・・!?」も開設。
26年間ダンサーとして出演してきた東京ディズニーランドを、2012年に退く。
その後は千葉県柏市の「よみうりカルチャー柏」や、浦安の「t-style. dance studio」にてダンス講師に。
2013年12月には、元・東京ディズニーランドダンサーたち4名でダンスボーカルユニット「D★4」を結成。
2020年1月20日、妻と共に柏市にダンススタジオ「KMI/DANCE STUDIO」をオープン。
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1965年12月28日生まれ。 既婚で子供も居る。
- 小橋琢人
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こはし たくと。 1965年12月5日生まれ。東京都出身。A型。身長:178p(公称)。
実家は1980年代前半に福島県耶麻郡猪苗代町渋谷に移り、ペンション「ある日記」を経営。
3才よりヴァイオリンを始め、16才より武蔵野音楽学院ドラムス科で学んだ後、 スタジオ・ミュージシャンの原田佳和に師事し、本格的にレコーディングやライブサポートなどの仕事を始める。 そして1994年から2002年12月まで、バンド「the FIELD OF VIEW」のドラムとして活躍。 1995年にフジテレビ『HEY!HEY!HEY!』に出演した際には、ダウンタウンから「三田村邦彦に似てる」とツッコまれた。
2002年、デザイン会社「GLCreate」を立ち上げ、グラフィックデザイナーとしても活動開始。 ファッション雑誌『SENSE』、『RUDO』、『COVER』、『Safari』などへの純広告、CDジャケット、ポスター、カタログ、DM、タレントグッズ、企業ロゴなど、幅広いデザイン制作を行う。
2002年12月のFIELD OF VIEW解散後は、ジャズソウルバンド「Soul Watt!」を結成したり、リュ・シウォンのシングル『桜』(2005年4月13日)などにドラマーとして参加。 また、Beingが運営している港区東麻布の音楽学校「Being Music School (旧名:B-ing音楽振興会)」にてドラムの講師を務めていたが、学校自体が2015年6月末日で閉校した。
閉校の直後よりハワイに移住。 - 桜井公明 (後の櫻井こうめい)
さくらい きみあき。 本名:櫻井公明。 山梨県甲斐市生まれ。 O型。 都立葛西南高校を卒業し、国士舘大学政経学部に進学。
Jr.時代には、ジャニーズ少年隊主演の月曜ドラマランド『胸さわぎの放課後 2』(1983年12月19日、フジテレビ)に出演。
ジャニーズ退所後は、東京ディズニーランドのダンサーや松田聖子のバックダンサーなどを務めた他、1991年にはミュージカル『聖闘士星矢』に海将軍クリシュナ/黄金聖闘士アルデバラン役で出演し、SMAP、TOKIOと共演した。
その後は、俳優の別所哲也が社長を務める芸能事務所「パシフィックボイス」でのマネージャー業を経て、同じく別所哲也が社長を務めるグループ企業「キャスティングボイス」のマネージャーに。 また、「櫻井こうめい」の別名を名乗るようにもなった。 - 鈴木則行
- 武口明 (後の武口明良、武口あきら、武口愛気良)
- 田代秀高
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1965年10月12日生まれ。 長崎県佐世保市出身。O型。 愛称:たっちゃん。 佐世保市立相浦小学校、同市立相浦中学校、長崎県立佐世保西高校卒業。 モノマネをするのが好き。 政治経済への関心がとても強い。 兄弟は5歳上に姉が1人で、郷ひろみのファンだった。
高校時代は応援団に所属。 更に高校2年からは、子供ばんどの『だからそばにいておくれ』などをコピーしていたバンド「Pishy-隊 (ピシャイたい)」のボーカルも務めていた。 「ぴしゃい」は佐世保弁で「ピッタリ」、「バッチリ」という意味。 オリジナル曲も1曲だけあった (とは言え、シブがき隊の『Zokkon 命 (LOVE)』の替え歌)。
高校3年生だった1983年には、フジテレビ『欽ドン! 良い子悪い子普通の子』の“三代目フツオ役”のオーディションに応募し、県内模試を休んで福岡オーディションに参加したが、落選。 欽ドンの鉛筆を3本だけ貰って帰った。
高校卒業後にバンドメンバーと共に上京し、アパートで共同生活をしながら漠然とコント芸人に憧れていた中、オーディション雑誌『月刊デ・ビュー』で見つけた小泉今日子主演の映画『生徒諸君!』(1984年12月22日公開)の出演者オーディション(東京大会)に応募するも、最終的に不合格となる。 ところが後日、自宅アパートに電話が無かったことから電報で「映画の製作事務所に電話を下さい」との知らせが届いたため電話をすると、中野サンプラザホールで開催される全国大会に招かれた。 しかしこのオーディションでもまた落ちてしまった。 すると後日、自宅にまた「製作事務所に電話を下さい」との電報が届いたため電話をしてみると、「監督の西河克己があなたを気に入ってるから大船の撮影所に来て欲しい」と言われ、最終的に合格。 同映画に漫才研究会のオカマ部員役で出演することとなった。 出演するにあたり、田代はお洒落な髪型にしようと代々木の美容院に行ったが、希望していたものとは違いアフロのような髪型にされてしまった。
自分の出演シーンの撮影が終わったため、田代は長崎の実家に一時帰郷。しばらくして東京に戻ると、3度目となる電報がアパートに届いていた。 急いで連絡を入れると、「お前どこに行ってたんだ! セリフが増えたから監督が呼んでんだよ!」と言われ、ギリギリで追加撮影に間に合い、映画のソフトボール大会のシーンで実況中継をするというセリフの多いシーンを急遽任された。 ちなみにこの映画で田代はノーギャラでの出演だった。 映画のスポンサーだった化粧品会社「レブロン」の旅行用の小さなシャンプーとリンスを貰ったのみ。 また、田代は映画に出演する前から元々、小泉今日子の大ファンでもあった。
田代はこの後、漫画『バリバリ伝説』の実写版映画(監督:西河克己)に聖 秀吉役で出演する予定だったが、『生徒諸君!』での小泉今日子のギャラが少ないとして所属事務所であるバーニングプロダクションと映画の製作会社が裁判に発展。 製作会社側が敗訴してギャラを多く支払ったため、負債を背負って資金が足らなくなり、『バリバリ伝説』の製作は中止となった。
そのため、製作事務所の紹介で全国の学校の体育館を回る「劇団ポエム」(役者9名、スタッフ1名)に出向することになり、半年足らずだがマイクロバスで仙台などの東北地方を回って演目『銀河鉄道の夜』に主演で出演していた。
そんなある日、知り合いの業界人(『オリコンウィークリー』のスタッフ)から電話が入り、「田代君、ジャニーさんを紹介してあげるよ。そのためには年齢を若く詐称した方がいい」と言われ、実際は19歳だったが「1967年2月9日生まれの18歳」として若く偽り、ジャニー喜多川と面談。 最初はジャニーから18歳でももう遅いということで「マネージャーにならない?」と言われたが、「ダンスレッスンを受けてみてダメだったら考えます」と答え、何とかジャニーズJr.に滑り込んだ。 しかしダンスレッスンを受けるようになると、高校時代に応援団をやっていた経験が活きてダンスの型を覚えるのが人よりも早く、ダンス講師のボビー吉野から気に入られた。 (一部の雑誌ではバラエティ番組『アイドル花組おとこ組』終了後の1986年5月にJr.として入所したとされていたが、それは誤り)
1986年1月、日本テレビのバラエティ番組『アイドル花組おとこ組』(1986年1月8日〜3月26日)内の企画ユニット「桜隊」に投入され、レギュラー出演。 その後もバラエティ番組『ここんちプラネッと!』(テレビ東京)や、『ロッテ 歌のアルバムNOW』(TBS)に出演したり、「少年忍者」のゲストリードボーカルも務めた。 Jr.時代に仲が良かったのは、大沼雄一郎、桑名兼司、岩瀬茂之、佐藤寛之、宇治正高、江端兄弟など。 宇治と江端兄弟はまだ未成年だったが、よく一緒に酒を飲んでいた。
翌1987年2月、当時はまだジャニーズJr.内ユニットだった「GENJI」(当初の名前は「ライト・イン・シャドウ」)の結成メンバーに選ばれ、TBS『サブロー・シローの歌え!ヤング大放送』にもレギュラー出演。 最年長の田代はグループのリーダーを務め、オープニングテーマ「今、君と歌いたい」を毎週歌い、番組内ではシローから「とっつぁん坊や」と呼ばれてイジられていた。 一度、小泉今日子が番組にゲストで来たため、GENJIのメンバーで小泉の楽屋に挨拶に行った際、「GENJIです!よろしくお願いします! 僕は、実は会ったのは1回目じゃないんですけど・・・」と言ってみた所、「そうだよね、どっかで会ってるよね?」、「はい、生徒諸君に出てました」、「あっ、オカマ役やってた人かぁ」と覚えてくれていて、GENJIの他のメンバーたちから驚かれるという一幕もあった。
ところが、GENJIでの活動を始めて間もなくして、ジャニー喜多川によってメンバーから外されてしまった。 GENJIのリーダーだったにもかかわらず田代が脱退させられた理由は、当時、大沢樹生がジャニー喜多川に、事務所を辞めたいと直訴してきたことに始まる。 元々ジャニーは、ジャニーズJr.の山崎正人と阿部直人の2名を「光」というネーミングのグループで結成させ、「光源氏」の意味になるように、「光」と「GENJI」を合体させる計画を練っていたが、山崎の方が突如、事務所を退所してしまった。 そこでジャニーは、山崎&阿部コンビの代わりに、古くから事務所で頑張ってきた大沢、そして内海光司の2人を「光」にして、一緒にレコードデビューさせてあげようと発案。
しかしそうなるとリーダーの田代は、大沢&内海の2人よりも事務所では後輩でキャリアが少ないのに、年齢は2人よりも上なので、たとえリーダー役から降りたとしてもバランスが悪くなってしまう。 更にジャニーは、元ミュージカル俳優で、変声期前の綺麗な高音ボイスを持ち、有望株の新人Jr.だった赤坂晃も、どうしてもメンバーに加えたくなった。
まず、大沢と内海を加えることになった時点で、デビュー人数は7名。 それまでのジャニーズ事務所の歴史上、レコードデビュー組のグループで「7名」という人数の多さは一度も例が無く、ただでさえ大所帯であるのに、そこへ更に赤坂を加えて「8名」にまで増加させることはさすがに厳しく、必然的に田代がメンバーから外されることとなってしまった。 当時、GENJIのメンバーは後楽園でローラースケートのレッスンを行っていたが、田代だけはこの時点でまだ一度もレッスンには出向いておらず、これもメンバーから外される理由となった。 もし大沢が退所を申し出ていなければ、田代はそのままレコードデビューし、ローラースケートを履いて日本中を席巻していたはずだった。 佐藤敦啓はジャニー喜多川に「たっちゃんと一緒に光GENJIやりたいです」と直訴してくれたが、ジャニーの考えは覆らなかった。 なお、田代はジャニー喜多川から「You」ではなく「おじさん」といつも呼ばれていた。
GENJIから外された後は、ジャニーズ事務所が協力していたテーマパーク&ショッピングモール「アイドルワンダーランド」のスタッフとして勤務。 同年(1987年)夏には、近藤真彦主演の舞台『坊っちゃん』(1987年8月3日 - 25日、大阪新歌舞伎座)に、Jr.の木暮毅、江端郁己と共に出演。3人とも髪型を丸坊主にして役に挑んだ。
舞台を終えた後、ジャニー喜多川に「田舎に戻ります」と嘘をついて事務所を退所した。 なお、バック転は最後まで出来ないままだった。
退所後は、太平サブロー・シローの事務所「オフィス ルートエス」へ移籍するも、目立つ活動には至らなかった。
その後、アメリカを放浪。 帰国後は小劇団「真田十勇士」に所属。 猿飛佐助役を担当し、築地本願寺などで公演。 更に、「笑劇戦団」の第1〜第4公演にも出演した。 この他、Barを経営していた時期もあった。
ギターが趣味で、2012年10月14日、下北沢BlueMoonにてファーストライブを開催。 以降、諸星和己、佐藤寛之、元・桜隊の中岡真一郎(後の通名:中岡亮介)、同郷出身のシンガーソングライター・諸岡ケンジらともライブで共演。 特に佐藤寛之のライブには何度もゲスト出演している。
2012年11月6日、アメブロにてブログ「田代秀高のオレん家、orange」を開設。
2023年6月23日より、作家・小林高子のYouTubeチャンネルに出演開始。
[1]、 [2]、 [3]、 [4]、 [5]、 [6]、 [7]
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- 外山和彦
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とやま かずひこ。 1965年2月10日生まれ。 退所後、1994年に発売されたディスコ情報誌にて、“ディスコの名物黒服”として登場。
黒服の後はホストに転身。 更にその後、初代「J Soul Brothers」(後のEXILE)のマネージャーへと転身した。
2014年、全米最大手のダンススタジオ「MILLENNIUM DANCE COMPLEX」のフランチャイズとして、芸能事務所「株式会社 ミレニアム・エンターテイメント」(以下:ME)を北青山に設立し、ダンススタジオ「MILLENNIUM DANCE COMPLEX TOKYO」(後にMILLENNIUM DANCE COMPLEX JAPANに改称)を原宿に開校。 そしてダンススタジオを運営する会社として、「株式会社 ミレニアムジャパン」(以下:MJ)も原宿のスタジオと同住所に設立し、両社の代表取締役社長に。 [1]、 [2]、 [3]、 [4]
2015年11月、MEの社屋を一時的に恵比寿南に移転。
翌12月、MEの社屋を六本木に移転。
2016年5月、MJの社屋を東池袋に移転。
同年7月、MEの社屋を麻布台に移転。
2017年6月28日、新会社「Millennium Dance Complex Japan 株式会社」を、東品川にある他企業「GOLDEX 株式会社」の住所を借りて設立。(法人登記日:同年7月10日、登記住所:葉山町) [5]、 [6]
同年7月、MEの社屋を西新橋に移転。
原宿のダンススタジオ「MILLENNIUM DANCE COMPLEX JAPAN」が2017年からしばらく無くなっていたが、2018年1月に西新橋のMEのオフィスにて新規オープン。 - 西村一浩
1965年3月 or 4月生まれ。B型。 新田純一にそっくりだと言われていた。 芸能活動と並行し、美容院でアルバイトもしていた。 趣味はバイク。
『週刊セブンティーン』(1983年9月27日号)の素人カップルコーナー「今週のいちゃいちゃカップル」に、彼女とのツーショット写真が載ったことがジャニー喜多川に伝わって嫌われてしまい、事務所を追われた。 - 牧村稔
(1983年時)
(中央が牧村。左は武口明、右は前田直樹。
上は「きゃんきゃん」の山本博美で、後に京本大我の母親)
(「たのきん3球コンサート」にて。 近藤真彦の右隣が牧村)
まきむら みのる。 1965年8月10日生まれ。東京都東村山市出身。A型。愛称:マッキー。 趣味:登山。 好きな言葉は「虎穴に入らずんば虎子を得ず」。
爽やかさ、クールさ、渋さを併せ持った二枚目Jr.(俳優の渡辺航似)。 周りのJr.に比べてひときわ大人びていて、スタイルもスラリとした長身で松田優作に雰囲気が似ていたため、少年隊からは「優作」と呼ばれていた。
1982年12月31日、帝国劇場で行われた「第24回 日本レコード大賞」では、最優秀新人賞を受賞したシブがき隊『100%・・・SOかもね!』のバックダンサーも務める。(この時のJr.たちの衣装は全員私服)
1983年2月8日に放送された、フジテレビ『第10回記念 オールスター寒中水泳大会』に出演。
同年8月には、ナゴヤ球場と大阪球場で行われた「たのきん3球コンサート」に帯同。
更に同年、映画『あいつとララバイ』に、東山紀之率いる暴走族「キャッツ」のサブリーダー役で出演。
Jr.時代に特に仲が良かったメンバーは、武口明、前田直樹、守屋二郎。
芸能界引退後は、乳製品宅配会社「(株)シックアレンジメント」の専務取締役に就任。 - 八島勉 (長野県甲府市から通い)
- 吉田奨
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よしだ つとむ。 1965年10月10日生まれ。福岡県北九州市小倉出身。 身長:174cm、体重:53kg。小倉西高校卒業。 特技:ジャズダンス。
1980年代の中頃、休みを利用して上京した際に社長にスカウトされた。 ジャニーズ退所後、映画『時計 Adieu I'Hiver』(1986年)にエキストラ出演。 そして、狛江市の演劇エージェント「レオ・コーポレーション」に「降田奨 (ふるた しょう)」の芸名で所属。 その後、本名の「吉田奨 (よしだ つとむ)」に戻して活動した。 1997年からは劇団「Super Bū」にも参加し、翌1998年には「沢崎奬 (読み不明)」へと改名した。
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1966年生まれ
- 阿部順一
- 内海裕一 (内海光司の兄)
うちうみ ゆういち。 1966年12月11日生まれ。東京都荒川区東日暮里出身。
1981年12月に事務所に入っていた弟の内海光司に誘われて、1982年に事務所入り。 荒川区立第八中学校では番長でもあった。
「ジャPAニーズ・ジュニア」に参加。 東山紀之と並んで、マイケル・ジャクソンの真似とムーンウォークが得意だった。 後にファンの女性と結婚。 - 叶屋博基
- 木暮毅
こぐれ たけし。 1966年12月8日生まれ。神奈川県横須賀市出身。 身長:178cm。体重:63kg。A型。愛称:ぐれちゃん。 マイケル・ジャクソンの真似が得意だった。
ひかる一平のデビュー曲『青空オンリー・ユー』のバックダンサー(1981年)、 映画『あいつとララバイ』、 バラエティ番組『カックラキン大放送 ! !』、 テレビドラマ『月曜ドラマランド』シリーズ(テロップでは「木暮育」、「木暮教」と2度も誤植)、『気になるあいつ』(生島学園高校 日の出寮生・木戸洋次役)、『アリエスの乙女たち』(1〜3話、13話)、『ゴメンドーかけます』、 舞台『ロック・ミュージカル 時代はサーカスの象にのって ’84』、『This is トモ子』、『坊っちゃん』、『ガラスの仮面』、『ロミオとジュリエット』などに出演した他、 歌番組『ロッテ 歌のアルバムNOW』(1986年6月1日 - 1987年9月27日、TBS)では、桑名兼司と共にJr.の代表としてマイクを握り、番組のオープニングコールを行っていた。 1987年にはジャニーズ事務所が協力していたテーマパーク&ショッピングモール「アイドルワンダーランド」でもスタッフとして勤務した。
1989年に事務所を退所。 その後、1991年に俳優事務所「アクトレインクラブ」(社内部署:横田オフィス)に所属。しかし目立つ活動は無いままで引退した。 (なお、VIPタイムズ社『日本タレント名鑑』に1992年度版以降、数年に渡って掲載されていたが、本名も含めて全て「小暮毅」と誤植)
好きな言葉は「日々是好日」、「努力なくして発展なし」。 - 東山雄司
- とうやま ゆうじ。 1966年5月16日生まれ。 都立新宿山吹高校に通い、演劇部に所属していた。 後に一般人としてフジテレビ『ねるとん紅鯨団』に出演し、「ヒガシ(東山紀之)に教わった」と言って簡単な振り付けを披露した。 なお、告白タイムでは振られている。
- 中本雅俊
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愛称:なかもっち、もっち。 1966年12月15日生まれ。 東京都港区出身。 身長:178cm。B:110cm、W:107cm、H:110cm。 血液型:B型。 立正大学付属立正高校卒業、玉川大学文学部芸術学科演劇専攻中退。 趣味:映画鑑賞、ゲーム、ドライブ。 特技:ダンス、パントマイム、ムーンウォーク。
1982年、15歳でジャニーズ入りし、1988年までの6年間所属。 ダンスが非常に上手く、「ジャPAニーズ・ジュニア」、「少年忍者」(サポートメンバー)、「Mr.ミュージック」に参加。 主に田原俊彦のバックで踊り続けたJr.だった。 Jr.でありながら、在籍後期にはボビー吉野のアシスタントも務めていた。 ジャニーズ少年隊の映画『あいつとララバイ』(1983年)、光の映画『…これから物語 〜少年たちのブルース〜』(1988年)にも出演した。
事務所退所後は「東宝芸能」へ移籍し、ミュージカルダンサーに転身。 1991年3月の舞台『踊らせて鳥のように Vol.2』では乃生佳之と共演、1992年の舞台『ドラゴンクエスト』ではSMAPと共演、1995年の舞台『PLAYZONE 10Yrs KING & JOKER 〜映画界の夢と情熱〜』では少年隊との共演も果たした。
また、木野正人が1991年から1992年にかけてリリースしたダンス教則ビデオシリーズ『LA STEP』に出演したり、1993年からはダンスパフォーマンスチーム「Revolution Dance Performance (通称:REVO)」にも参加。 更に「劇団四季」のダンス講師や、NHK教育『天才てれびくんMAX』やサザンオールスターズのコンサートの振付など、多岐に渡って活躍。
この他、TBSドラマ『HOTEL』にゲスト出演して赤坂晃と共演したり、ジャニーズ事務所での大先輩にあたる元「キングコング」の浅田敏行が渋谷区に開校したダンス教室「T-ASADA DANCE PROJECT」にて講師も務める。
2005年7月29日からはブログ「中本雅俊のCOOLなままSHAKE」を開設した。
約30年所属していた東宝芸能を2018年一杯で退所。 翌2019年1月より、「サンカラーズ」に所属。 [1]
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- 早藤重己
はやふじ しげみ。 1966年12月4日生まれ。神奈川県出身。B型。 シブがき隊に憧れてジャニーズ入り。 - 平本淳也
- 前田直樹 (1996年生まれの前田直樹とは別人)
マイケル・ジャクソンと同じ8月29日生まれ。 ダンスが上手く、「ジャPAニーズ・ジュニア」、「田原ダンサーズ」にも参加。 非常に長身なJr.だった。 また、ちょうど柳沢超と遠藤直人を足して2で割ったような顔立ちだった。
『ABCヤングアイドル野球大会』の第8回(1983年6月4日収録)と第9回(1984年6月収録)に出場。第9回での写真が『月刊明星』(1984年9月号)に掲載。
しかし難病を患いジャニーズ事務所を退所。 後に大学へ進学。
Jr.時代に特に仲が良かったメンバーは、武口明、守屋二郎、牧村稔。
1967年生まれ
- 東昌孝
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あずま まさたか。 1967年9月17日生まれ。文京区(江戸川橋)出身。B型。 愛称:オズ、大将、長老。
ジャニーズ事務所に入る前は子役俳優として活動。 『恐竜戦隊コセイドン』(第40話「タイムスリップ 恐竜時代の戦国武者」、1979年4月6日、テレビ東京、キチ役)、『サンキュー先生』(1980年9月8日 - 1981年3月23日、テレビ朝日。第6話にてメイン)などに出演。
16歳になった直後の1983年10月にバイクの免許を取得。
雑誌『週刊セブンティーン』(1984年6月12日号)に、江端兄弟、守屋二郎、内田信也(当時18歳)、木村吉範(当時15歳。原宿のローラー族「シャークス」に所属)、岡田佳英(当時14歳)と共にモデル掲載。
ジャニーズJr.としての在籍期間が非常に長かったため、末期の頃にはJr.の仲間たちから「もう結婚しろ」と言われていた。 なお、光GENJIの内海光司と非常に親しい人物だった。
実家が印刷会社で、ジャニーズ退所後は家業を継いだ。 - 安藤孝秋 (後にAV男優や探偵に転身)
- 石丸志門
いしまる しもん。 1967年9月5日生まれ。台東区浅草出身。身長:176cm、血液型:O型。 兄弟は10歳下に妹が一人。
両親は石丸が子供の頃に離婚したため、以降は母子家庭で育つ。 父親は建築家(40歳で逝去)、母親は靴やカバンのデザイナー → 音楽事務所勤務。 (母親は日本大学芸術学部演劇学科の在学中に志門を身篭ったことで同大学を中退したが、在学時には同学部の同級生に初代ジャニーズの面々が居た)
台東区立富士幼稚園、同区立富士小学校、私立 立教池袋中学校(部活は写真部)、都立京橋高校(1年の2学期一杯で転出) → 私立中央大学高校(夜間定時制)を1987年3月に卒業。 大東文化大学国際関係学部国際文化学科に入学したが1年一杯で退学し、アメリカ・ニューオーリンズのテュレーン大学に1年間留学。
帰国してからはアルバイト生活を2年ほど送っていたが、英語教師を目指して24歳で文教大学文学部英米語英米文学科に入学。 教員免許を取得して1996年3月に卒業。 個人情報保護士、個人情報保護指導者、個人情報保護コンサルタント、企業情報管理士、情報セキュリティ管理士などの資格も保有。
好きなスポーツ:テニス。 好きな漫画:山本鈴美香の『エースをねらえ!』。 好きなアニメ:『宇宙戦艦ヤマト』 憧れていた先輩:田原俊彦。
1982年1月17日(日曜日)、中学2年の3学期にジャニーズ事務所に入所。 同期生は大沢樹生、正木慎也の2名。(大沢と正木のオーディション日、入所日について「1月10日」や「1月16日」と書かれた文献が存在するが、いずれも誤り)
テレビドラマ『年ごろ家族』、ヤンヤン歌うスタジオ内ドラマ『マッチの青春すくらんぶる PART2』にレギュラー出演。 また、雑誌『週刊セブンティーン』(1984年3月6日号、集英社)にて、柳沢超、遠藤直人、山岸正和、中山秀征と共にモデルとして掲載されたこともあった。
この他、雑誌『月刊平凡』(1983年4月号)の中村成幸(中村繁之)のページのダンスレッスン写真にも、中村の右側に石丸が写り込んでいる (左端は藤沢裕介)。
Jr.時代には同僚たち(後の少年忍者のメンバーの一部)からのイジメに遭っており、楽屋でいきなり電気を消された上で集団リンチを受けた被害も後に告白している。 そしてその現場にたまたま登場し、「お前ら何やってんだ!」と言ってリンチを止めてくれたのが、少年隊の植草克秀だった。
そして少年隊の全国ツアー「SPRING CONCERT」(1985年3月21日〜4月7日)の帯同を終えた後の同年5月、ジャニー喜多川から新しく作るグループ(後の少年忍者)への加入を電話で打診された際、イジメ被害のことは隠した上で「ソロでやっていきたい」と答えた所、ジャニーが激怒し、「明日から来なくていい」と言って電話を切られてしまう。 石丸は当時、『野良犬伝説』(ヤンヤン歌うスタジオ内ドラマ)への出演が決定し、台本も既に受け取っていたため、心配になってテレビ東京のプロデューサーに電話してみた所、「ジャニーさんから連絡があって、石丸君の役は取り消しになった」と言われ、絶望する。 石丸を担当していた女性デスクの川崎からは、「今ならまだ間に合うからジャニーさんに謝りなさい」とのアドバイスの電話も貰ったが、激怒したジャニーの機嫌を直す自信が無く、石丸はやむなく事務所を退所した。
なお、ジャニーズ在籍後期には美川憲一と知り合って親しくなり、美川の家に招かれたこともあった。 この時に美川からは、石丸もドラマでレギュラー共演した仲のアイドル・岡田有希子を自殺に追い込んだ真犯人が、当時噂されていた峰岸徹や神田正輝ではなく、舘ひろしであったことも知らされている (岡田は舘との子供も懐妊中だった)。[1]
2006年1月19日、ブログ「ジャニあっく!」を開設。 以後、「ジャニーズ評論家」の肩書きを名乗り、週刊誌からコメントを依頼されるようにもなった。
2017年12月29日、AmazonのKindleストアにて、電子書籍の自叙伝『昔々のとあるジャニーズJr.の物語』を出版 (2023年初夏に販売終了)。
2020年5月10日、YouTubeチャンネル「ジャニあっく!チャンネルプラス」を開設。
カウアン・オカモトがジャニー喜多川から受けた性加害の告発を見て長年の洗脳が解け、2023年5月21日、ジャニー喜多川から口淫だけではなく肛門性交まで強いられた被害をブログで告発。[2]
続いて『FLASH』(同年6月27日号)でも、改めてジャニーからの性的虐待を告発した。[3]、[4]
同年6月24日、Twitterアカウント開設。[5]
同年6月26日、朝日新聞DIGITALにてジャニー喜多川からの性被害を告白。[6]
同年6月29日発売の『週刊文春』(同年7月6日号)にてジャニー喜多川からの性被害を告白。[7]、[8]
朝日新聞DIGITALでの記事の短縮版が、同年6月30日付の朝日新聞の朝刊に掲載。
同年7月6日、Threadsアカウント開設。[9]
同年7月9日 (性加害者・ジャニー喜多川の命日)、「ジャニーズ性加害問題当事者の会 (Johnny's Sexual Assault Victims Association)」(略称:JSAVA)を決起し、副代表に就任。 同年7月11日発売の『FLASH』(7月25日・8月1日合併号、光文社)に掲載。
同年7月15日、fumumuでのインタビュー記事が公開。[10]
同年7月23日、YouTubeチャンネル「Arc Times」のインタビュー動画 [11] (第1部)、および同日の第2部のライブ配信 [12] に出演。←無料公開の第1部だけでも全編必見の動画
同年7月24日付の『東京新聞』にインタビュー掲載。[13]
同年7月25日、「ジャニーズ性加害問題当事者の会」のメンバーの内、4名(石丸、小林、中村、イズミ)が国連人権理事会の2時間弱のヒアリングを一緒に受ける。 同日、原宿にて緊急のぶら下がり会見を開催。[14]
同年8月1日夜、立憲民主党の山井和則議員が石丸の自宅を訪問し、生活実態を確認。
同年8月4日17時、「ジャニーズ性加害問題当事者の会」の記者会見が日本記者クラブで行われる。 [15]、 [16]、 [17]、 [18]、 [19]、 [20]
同日、TBS『news23』と日本テレビ『news zero』で当事者の会の特集を放送。 [21]、 [22]
同年8月5日、TBSの報道ドキュメンタリー番組『報道特集』にて石丸の密着取材を放送。[23]
同年8月7日午前、国会で立憲民主党が開いた「性被害・児童虐待」に関する国対ヒアリングに、蔵元左近弁護士と共に出席。 [24]、 [25]、 [26]
同年8月14日 午前10時から2時間強、ジャニーズ事務所の再発防止特別チームのヒアリングを受ける (「ジャニーズ性加害問題当事者の会」の弁護士・杉山和也も同席)。 同日、平本淳也、大島幸広、杉山弁護士と共にヒアリング報告記者会見を実施。 会見の模様は、日本テレビ、TBS、フジテレビのニュース番組で報じられた。[27]、[28]
同年8月15日、トークイベント「本橋信宏『僕とジャニーズ』刊行記念「35年目の真実」トークイベントDAY1」(阿佐ヶ谷ロフトA。ツイキャスでの生配信も有り)に、平本淳也、中村一也、大島幸広と共にゲスト出演。[29]、[30]
同年8月21日、参議院議員会館にて蓮舫参議院議員と面会し、「ジャニーズ性加害問題当事者の会」の訴えを国会で取り上げてくれるよう陳情。[31]、[32]
同年8月22日、トークイベント「平本淳也×藤木TDC×本橋信宏 「35年目の真実」『僕とジャニーズ』(イースト・プレス)刊行記念」(下北沢・本屋B&B。Zoomでの生配信も有り)に、中村一也と共にゲスト出演。[33]
同年8月28日、東洋経済オンラインに平本淳也と共にインタビュー掲載。[34]
ジャニーズ事務所が設置した「外部専門家による再発防止特別チーム」が、同年8月29日16時より記者会見を行い、ジャニー喜多川による性被害者への聞き取り調査結果を発表。 これに際し、NHK総合『ニュースLIVE! ゆう5時』&『NHKニュース7』、日本テレビ『news zero』、TBS『news23』、フジテレビ『イット!』、テレビ朝日『スーパーJチャンネル』&『報道ステーション』に自宅からの録画コメント出演。[35]、[36]
同年8月30日午前、国会で立憲民主党が開いた「性被害・児童虐待」に関する国対ヒアリングに、大島幸広と共に出席。[37]、[38]、[39]、[40]、[41]
同年8月31日、東スポWEBにコメント掲載。[42]
同年9月4日、「ジャニーズ性加害問題当事者の会」と服部吉次が行った記者会見に出席し、「事実究明・対話救済」の委員会と基金の設置をジャニーズ事務所に求める。 しかしテレビ局のジャニーズへの忖度が消えず、会見を中継したのは日本テレビ系列の『情報ライブ ミヤネ屋』のみだった。[43]、[44]、[45]、[46]
同日、中村一也と共にArc TimesのYouTube Liveに出演。[47]
同年9月8日付の「AERA dot.」にインタビュー掲載。[48]
同年9月9日、自身の公式ブログのタイトルを「じゃにあっく」から「ジャニ悪」に改称。[49]
同年9月12日午前、国会で立憲民主党が開いた「性被害・児童虐待」に関する国対ヒアリングに、大島幸広と共に出席 (本来は長渡康二も出席予定だったが、朝の移動時に駅で足を踏み外して怪我を負い救急車で病院に搬送されたために欠席)。 続いて同日午後に参議院議員会館での日本共産党主催「芸能分野での性虐待問題等についてのプロジェクトチーム」第4回会合に平本淳也、大島幸広と共に出席。[50]、[51] - 宇治正高
- 江端郁己
- 江端郁世
- 大本隆史
1967年1月5日生まれ。東京都目黒区出身。目黒区立第二中学校卒業。兄弟は兄と姉が1人ずつ。
ドラマ『1年B組新八先生』(1980年4月4日 - 9月26日、TBS)に生徒・石崎洋一役でレギュラー出演。 続いてドラマ『手ごろな女』(1980年10月7日 - 11月18日、日本テレビ)にも出演した。
得意な教科:数学、美術。 得意なスポーツ:野球、サッカー。 好きな俳優:武田鉄矢、松田優作。 性格:優しいが短気。 将来の夢:アメリカの警察官。 - 佐藤健太
1967年5月6日生まれ。東京都日野市出身。O型。 私立明星高等学校、日本テレビ音楽学院卒業。身長:171cm。特技:乗馬。
1982年にジャニーズに所属。(中学2年の終わりから中学3年まで在籍)
中学3年生の時に歌手を目指して日本テレビ音楽学院のオーディションを受け、特待生として入学。 学業と並行して日本テレビの音楽番組『ザ・トップテン』でマイク渡しのアルバイトもしていた。
16歳の時に日本テレビ音楽学院の歌の発表会でゴールデンミュージックプロモーションにスカウトされ、1985年8月20日にテレビドラマ『夏・体験物語』で俳優デビュー。 その直前の、同年7月16日放送のフジテレビ『火曜ワイドスペシャル 第16回 オールスター紅白水泳大会』と、1986年初頭の『火曜ワイドスペシャル 第13回 オールスター寒中水泳大会』に出演したり、雑誌『明星 MEN'Sヘアカタログ』の1985年秋・冬号と1986年春号では大沢樹生と同じ枠で掲載された。 1987年3月2日放送の月曜ドラマランド『藤子不二雄の夢カメラ 「さ・よ・な・らジゴロ」』(フジテレビ)では宇治正高と共演した。
1990年よりモデル事務所「ソサエティオブスタイル」に所属。 その後、「ノーリーズン」に移籍。 [1]、 [2] - 塩入訓
しおいり さとる。 錦織一清に次いでダンスが上手く、「ジャPAニーズ・ジュニア」や「田原ダンサーズ」に参加した。
1984年6月には『第9回 ABCヤングアイドル野球大会』にも出場し、『月刊明星』(1984年9月号)に写真が掲載された。
後にファンの女性と結婚(婿養子)し、妻の実家である広島県に転居。 - 正垣吉朗
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しょうがき よしろう。 1967年11月30日、熊本県生まれ。A型。 好きな歌手は「ラウドネス」のボーカルの二井原実。
1984年2月6日に放送された月曜ドラマランド『どっきり双子先生・乙女学園男子部』の第5話にゲスト出演した (ただしテロップでは「正垣教」と誤植)。
引退後は、テレビ制作会社「イースト・エンタテインメント」に入社してプロデューサーとなり、フジテレビ『とんねるずのみなさんのおかげです』などを担当した。
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しょうがき よしろう。 1967年11月30日、熊本県生まれ。A型。 好きな歌手は「ラウドネス」のボーカルの二井原実。
- 田中寛規
たなか ひろき。 愛称:ロン。 内斜視の目と、一時期襟足を長くしていた髪型が特徴的だった。 実家は理髪店。 ダンスが上手く、「ジャPAニーズ・ジュニア」や「田原ダンサーズ」に参加。 1984年6月には『第9回 ABCヤングアイドル野球大会』にも出場し、『月刊明星』(1984年9月号)に写真が掲載された。
この他、1986年には「少年忍者」のサポートメンバーとして日本テレビ『アイドル花組おとこ組』に出演したり、「Mr.ミュージック」のメンバーとして、中山美穂の『WAKU WAKUさせて』のバックダンサーも務めた。 1987年1月1日に日本武道館で行われた少年隊のコンサート「NEW YEAR CONCERT ’87」にも出演。 - 猶場輝彦 (後の直場輝彦)
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なおば てるひこ。1967年3月31日生まれ。東京都出身。身長:175cm、体重:53kg、B型。
男闘呼組の前身バンド「東京男組」の候補メンバーだった。
ジャニーズ退所後は、「劇団NLT俳優教室」を卒業し、「セクト・K」へ所属。 年齢を「1970年3月31日生まれ」と3歳若く詐称し、俳優“直場輝彦”として活動。 1993年7月12日放送のTBSの単発ドラマ『徳田刑事シリーズ (1) 黒い履歴書』や、1996年1月公開の映画『Zの回路 〜復讐の裏ゴト師〜』などに出演した。 特技はボクシングと野球。
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なおば てるひこ。1967年3月31日生まれ。東京都出身。身長:175cm、体重:53kg、B型。
男闘呼組の前身バンド「東京男組」の候補メンバーだった。
- 中村誠
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(左はひかる一平)
1967年6月18日生まれ。小学校時代からの愛称:ちゃか。 高校時代は野球部に所属。 既婚で娘も居る。
TBS『3年B組金八先生 (第2シリーズ)』にて土屋英樹役で活躍。 当時は石野真子のファンだった。
芸能界引退後は、旅行会社で5年ほど勤務。次に金融系の外資企業(金八OBの足取りを追った雑誌記事では「保険会社」と表現)で営業を20年弱していた。 一方、インターネット上では「やくざ(企業舎弟)になった」という書き込みが散見され、2011年3月27日に放送された『3年B組金八先生・ファイナル 〜 「最後の贈る言葉」4時間SP』にも、同じ第2シリーズのジャニーズ組であるひかる一平や栗原茂の他、既に芸能界を引退した者たちも数多く出演したが、中村は出演しなかった。
しかしその後、2013年6月11日放送のTBS『もてもてナインティナインSP 〜 金八先生…ナイナイ世代が涙した名シーン公開…武田鉄矢が沖田浩之に“贈れなかった言葉”』に出演し、脱サラをして2010年3月4日より足立区千住にてパンケーキ屋「珈琲 茶香 (ちゃか)」を経営していることを明かした。 中村は2020年10月10日放送のテレビ東京『出没!アド街ック天国』にも出演した。 同店は、ふわふわパンケーキのパイオニアとしても知られる超人気店のため、実際にパンケーキを食べるにはシステムも複雑で非常に困難を極める。 [1]、 [2]、 [3]、 [4]、 [5]
また、茶香には以下の有名人が来訪している。- 「次長課長」の2人とケンドーコバヤシ (2011年5月30日放送のテレビ東京『地元応援バラエティ このへん ! ! トラベラー 〜 北千住の商店街食いだおれSP!』にて)
- タレント・モデルの「はな」 (2012年11月25日にFMラジオ『TIME FOR BRUNCH』(同年12月2日放送、J-WAVE)の収録で)
- 鈴木奈々と玉ノ井親方(元大関の栃東大裕) (2017年5月9日放送の日本テレビ『幸せ!ボンビーガール』にて)
- ウエンツ瑛士、高畑充希、竹内涼真の3名 (ただし混んでいて入店は断念。2017年7月11日放送の日本テレビ『火曜サプライズ』にて)
- この他、パンケーキマニアでもある織田信成が、一番美味しかった店として茶香の名を挙げている。
2020年12月20日、重義が閉店。
2021年2月13日、茶香が足立区千住寿町の2階建ての新店舗で移転オープン。
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- 成田健一 (成田昭次の兄)
名古屋市立沢上中学校時代は岡田有希子の同級生だった。
1983年3月に同中学を卒業し、上京してジャニーズの合宿所に転居。 Jr.時代は同僚の平本淳也と非常に仲が良かった。
しかし翌1984年の時点では既にジャニーズを退所しており、四谷の美容院に勤務。 そして18歳で名古屋に戻り、’60年代風のアマチュアバンドを結成してミュージシャン活動をしていた。
その後、信楽焼の陶芸家となり、結婚して2人の子供ももうけたが、弟の成田昭次が大麻取締法違反で逮捕された直後の2009年11月11日に、名古屋市熱田区の名古屋国際会議場の敷地内にて自殺。 42歳没。 (逝去の話は昭次に近しいおっかけファン(アカウント名「さや」)によるYahoo!ブログ「紗夜です」の2011年11月12日付の記事にて明かされたもの)
そして2022年12月15日には、追悼の意味も兼ねてか、健一の自害現場である名古屋国際会議場のセンチュリーホールにて、男闘呼組の再結成ライブの名古屋公演が行われた。
『月刊明星』(1986年7月号、1988年10月号)や、男闘呼組の写真集『BREAK THE SILENCE』(1989年、音楽専科社)内のコンサート楽屋写真にて、成田健一の姿が確認できる。 なお、そのコンサート(1989年8月25日、神戸ワールド記念ホール)では健一もステージに上げられ、レッド・ツェッペリンの曲『ロックンロール』を、リハ無しのぶっつけ本番で兄弟ギターセッションした。 - 新田毅
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にった つよし。 1967年11月19日、兵庫県姫路市生まれ、神戸市育ち。O型。
小学3年で東京に転校。 中学1年生だった1981年1月4日にジャニーズに入所。 中学3年の1982年12月31日を最後に退所。
拓殖大学第一高校を経て1990年3月に拓殖大学政経学部を卒業し、三井グループ「三井農林 (株)」の子会社「三井農林住販 (株)」に就職。 不動産仲介営業に携わるが、売れない時期を経験。
5年後の1995年3月、憧れだった「BMW東京株式会社」に27歳で転職。一転して新車営業でトップセールスマンとなる。 社内資格「シニアセールスエグゼクティブ」を取得し(全国1200名中、30名)、2003年にはBMW年間新車販売台数全国第2位も獲得した。
2006年11月からは「ポルシェセンター世田谷」に転職し、2007年7月まで新車のポルシェを販売。 そして「池袋BMW」を経て、2009年7月13日に独立を果たし、高級外車専門の中古車販売業として「エックスコーポレーション株式会社」を世田谷区砧に設立。 同年9月11日に店舗「Executive Car House X Corporation」をオープンした。 後に店舗は無くしてオフィスを港区北青山(表参道)に移転。 この他、営業スキルアップセミナーを開催したり、車関係と並行してボーカル教室も運営。
更に2011年10月より、文部科学省生涯学習政策局所管の社会教育団体である、「社団法人 倫理研究所」の下部組織「東京都倫理法人会」の中の「千代田区中央倫理法人会」の幹事、 2013年9月1日より、同じく「社団法人 倫理研究所」の下部組織にあたる「東京都経営者モーニングセミナー委員」の副委員長、 2012年11月より、「(社) 国際総合スポーツ機構 タイガーマスク運動ランドセル基金」の理事、 2013年10月より、「(株) G-POWER」の専務取締役を、それぞれ兼任。
2013年、東久邇宮文化褒賞を受賞。
2014年、元ジャニーズJr.の宇治正高を「東京都倫理法人会」に招き入れる。
2015年、「東京都紀尾井町倫理法人会」の副会長に就任。
また、顔のイケ面ではなく、心のイケMEN、志を持った者の交流会「イケMEN会」を、2012年1月より毎月主催。 この「イケMEN会」には、同い年の元Jr.仲間・蓬田利久も第4回目から参加していた。
2014年10月10日より、自動車のガラスコーティング施工会社「株式会社G-POWER」の取締役に就任。
2016年9月9日、千葉テレビ『ホリプレゼンツ 求人任三郎がいく!』に、G-POWERの取締役として出演。 - 百武治明
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ひゃくたけ はるあき。 1981年、中学2年の春に入所。同期生は板越英真。
都立京橋高校卒業。 日本テレビ開局30周年記念ミュージカル・ドラマ『夏の王様』(1982年10月16日)に出演。
31歳だった1999年2月20日、シアターVアカサカで行われた孫正義主演の舞台『平成・幕末世直し劇 ’99 「いでよ龍馬 〜立て ! ! ベンチャーの志士たち〜」 』に、新撰組隊員兼幕府見廻組役で出演。 この公演は『週刊新潮』(1999年3月4日号)のグラビアページも飾った他、ビデオ販売(40分、3,800円)もされた。
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ひゃくたけ はるあき。 1981年、中学2年の春に入所。同期生は板越英真。
都立京橋高校卒業。 日本テレビ開局30周年記念ミュージカル・ドラマ『夏の王様』(1982年10月16日)に出演。
- 平本信一 (平本淳也の弟)
- 藤沢裕介
- 松原康行
- 森泉真一 (8月25日生)
- 守屋二郎
1967年1月25日生まれ。東京都出身。B型。 上の画像の様に、雑誌などでは「守谷」と誤植されることがよくあった。
趣味:スポーツ。特技:テニス。 好きな食べ物:ハンバーグステーキ、メロン。 好きな女性のタイプ:優しくて明るくて清潔感のある子。 憧れの俳優:松田優作。 兄弟は兄一人、妹一人。 兄の影響で小学6年からテニスを始める。 中学校でテニス部に所属。 3年生の時に地区大会で優勝し、都大会でベスト8まで残った。
都立高校1年生の時に自分で応募してジャニーズに入所。 テレビドラマ『噂のポテトボーイ』(1〜5、8、11、13話にて向田清役)、 『中卒・東大一直線 もう高校はいらない!』、 『東中学3年5組』、 『少年隊 ショーアップ★ハイスクール』で活躍。 雑誌には『週刊セブンティーン』(1984年6月12日号、集英社)で初登場し、江端兄弟、東昌孝、内田信也(当時18歳)、木村吉範(当時15歳。原宿のローラー族「シャークス」に所属)、岡田佳英(当時14歳)と共にファッションモデルとして掲載された。
1985年初頭、バンド「東京男組 (旧名:東京)」にベース担当のメンバーとして抜擢される。 続いて、後身バンド「男闘呼組」の結成メンバーにもなったが、直後に「大学(電子工学科)受験のため」との名目で脱退。(しかしこの年には大学に合格できず)
脱退した後もジャニーズJr.としてしばらく事務所に在籍し、 1985年6月の『第10回 ABCヤングアイドル野球大会』と、 1986年6月の『第11回 ABCヤングアイドル野球大会』に出場した。
Jr.時代に特に仲が良かったメンバーは、武口明、前田直樹、牧村稔。 憧れていた先輩は田原俊彦。 - 蓬田利久
1967年4月3日生まれ。品川区出身。練馬区在住。O型。愛称:よもちゃん。 品川区立荏原第四中学校(校内暴力で有名だったヤンキー中学)卒業。 親類にはテレビにもよく出ていた有名女子キックボクサー、上野美術館にも出展していた画家、松崎しげる・朝丘雪路・布施博らを担当した男性マネージャーなどが居た。
元々はカメラ小僧で、シブがき隊や少年隊が出ていた公開番組『ザ・ヤングベストテン』の会場であるテレビ東京に毎週出向き、撮影したアイドルの生写真を学校で女生徒たちに1枚100円で売りさばいていた。 ちなみに女生徒たちから一番リクエストが多かったのは本木雅弘だった。 次に多かったのは錦織で、布川のリクエストはゼロだった。 毎週木曜日にテレビ東京の前に行って写真を撮っている内に、少年隊のメンバーと会話して仲良くなり、当初はテレビ局の外で話していたが、やがて楽屋にまで招かれるようになる。 そしてジャニー喜多川の目にも留まってスカウトされ、一緒にテレビ東京に通っていた同じ中学のクラスメイトの宇治正高と主に、1981年、中学2年の14歳でジャニーズに入所。 合宿所にも毎週金曜の夜に泊まりに行くようになった。
以後、『ザ・ヤングベストテン』、『レッツGOアイドル』などに出演。『たのきん全力投球!』では松本伊代のバックでも踊った。
1982年に、テレビドラマ『3年B組貫八先生』のオーディションを受けた結果、最終審査まで残る。 しかし、決まりかけていた役を最終的に松原康行に差し替えられたことを後から聞いて腹を立て、事務所を退所。 その後しばらくしてからまた事務所に復帰し、高校2年まで延べ約3年間所属していた。 ジャニーズ時代に仲が良かったのは薬丸裕英と錦織一清で、錦織とは退所後も交流が続いている。 一方、東山紀之からは靴をテレビ朝日の敷地内にあった池に投げ捨てられるなどのイジメを受けたこともあった。
1988年4月、20歳の時に秋葉原の半導体、エレクトロニクスの商社「東京機工電子株式会社」に営業マンとして就職。 以来、退職するまでトップセールスマンを維持し、インセンティブもあって最高月収は80万円だった。 そして25歳の時に、会社の先輩の結婚披露宴に行った際、そこで受付係をしていた2歳上の女性に一目惚れして交際を開始し、5年後の1997年に結婚。 30歳の時に目黒雅叙園で挙式した。
2004年にエキストラ事務所「マーキュリープロダクション」と「芸優」に登録し、テレビドラマ、バラエティ番組(『発掘!あるある大事典』など)、映画、CM、雑誌などに約2年間エキストラとして出演。 この時に出会ったタレントに誘われてパーティーに参加した所、知り合いが増える楽しさにハマってしまい、以来、頻繁にパーティーに顔を出して、どんどん人脈を広げていくようになる。 同い年の元Jr.仲間・新田毅が主催する「イケMEN会」にも参加。
2011年8月5日より、アメーバブログにて「☆toshi☆cyanのブログ」を開設。
2013年、25年間勤めた東京機工電子を退社。
膨大な数の人脈を使い、2014年からは自分自身で数々のイベントやプロジェクトを企画し、オーガナイザーを務めるようになる。
同じく2014年、蓬田がジャニーズ時代に得た経験が漫画化される。 タイトルは『Jr.メモリーズ』(著:柏屋コッコ)で、竹書房の漫画雑誌『増刊 本当にあった愉快な話 芸能人ダメ出しSpecial』(2014年1月23日発売)、 『本当にあった愉快な話』(2014年5月号〜2015年2月号)、 『増刊 本当にあった愉快な話 芸能プレミアム』(2015年1月7日発売)、 『本当にあった愉快な話 芸能プレミアム2015春号』(2015年4月20日発売)にて掲載された。 ジャニーによるタレントへの性的児童虐待のシーンも織り込まれている。
2015年、いとこが社長を務め、社員には宇治正高も居るマーケティング&ポスティングサービス&広告代理店の会社「ポスメディア」に営業マンとして入社 (蓬田の妻も事務職で入社)。 人材開発部部長に就任し、5年間勤務。
2016年4月27日、ラジオ番組『THIS TIME・手相の開運大学』(渋谷クロスFM)に、イベントオーガナイザーの肩書きで、桃井早苗(美女オーラクリエーター)と共にゲスト出演。 眞輝 (まき)、nacil (ナシル)と共演した。
2018年2月6日、映画『踊る!ホラ〜レストラン』協賛の特典映像『芋洗坂係長の「今日からあなたも係長!」ダンスムービー』シリーズ5篇の内、「飲み会篇」と「全員ダンス篇」に出演 (演出・振付:香瑠鼓。YouTube・アピキュピアチャンネル)。
同年3月25日、ラジオ番組『ストークサンデー』(鴻巣フラワーラジオ)にゲスト出演し、浜田伊織、松嶋可奈と共演。
2019年、練馬区春日町にて「株式会社 サテライトメディア」設立 (法人登記は2022年12月8日)。 業務内容は半導体の売買、広告代理店、イベントキャスティングで、妻(活動名:wakawaka)と2人だけで運営。
同年9月1日、ラジオ番組『幸せ de Night ! !』(レインボータウンFM)の第344回にゲスト出演し、菅生新、川上実津紀と共演。
同年10月22日、新宿・ネイキッドロフトでのトークイベントに出演。(共演:平本淳也、久田将義、川原田新一、中岡真一郎、小林篤志、伊藤智之、長渡康二。飛び入りゲスト:ロックバンド「コルベッツ」の松本邦彦と田口耕郎)
2020年2月23日、WEBラジオ『コウノイチロウのアートハート倶楽部』(クローバーラジオ)に、マルチイベンターの肩書きでゲスト出演。 コウノイチロウ、土屋亜有子と共演した。
同日、YouTubeのアートハート倶楽部チャンネルの番組『Ah! Cha ! ! テレビ屋』(第46回)にもゲスト出演。 同じくコウノイチロウ、土屋亜有子と共演した。
2020年3月15日、ラジオ番組『河邉治美の心のサプリメント』(渋谷クロスFM)に秋吉尋美 (ひろみ) と共にゲスト出演。 河邉治美、山本悠、長井秀和と共演した。
友人でもあるお笑いタレント・長井秀和がプロデュースしたインディーズのオムニバスCDアルバム『人と人を繋げる天使の歌』(2020年8月15日発売、GOLD DISC CORPORATION)にて歌手デビュー。 蓬田が参加した楽曲は、ソロ曲『人と人を繋げる天使』(詞は蓬田とBoBとの共作)と、ジャズシンガー・秋吉尋美とのデュエット曲『White Snow 〜もう1人じゃないから〜』の2曲。
2023年4月17日&5月1日、WEBラジオ番組『細田昌志の時空旅行RADIO』(AuDee)にゲスト出演。
同年7月14日、浅草橋のネットテレビ型ラジオ局「鳥越アズーリFM」の番組『ウソでしょっ!もう金曜日?』にゲスト出演し、コウガシノブ、道井良樹、末永百合恵と共演。
この他、毎年4月には南青山のフレンチレストラン「葉山庵Tokyo」を貸し切りにして自身のバースデーパーティーを企画・開催し、タレント、パフォーマー、マジシャンなどもゲストに呼んで、毎回約250名を集客している。 更に毎月第4火曜日(19時半〜23時)には新宿御苑前のライブバー「Gyoen ROSSO 198」を貸し切りにし、アーティスト、ものまねタレント、マジシャンなどをゲストに招いたカラオケイベント(4,200円で飲み放題&ビュッフェスタイル)を開催している。
1968年生まれ
- 赤坂武彦 (元「桜隊」)
1968年9月10日生まれ。 埼玉県三郷市出身。 - 石井哲也 (後のTETSUYA)
-
千葉県柏市出身。B型。兄弟は兄が一人。
千葉県立柏中央高校、流通経済大学経済学部経営学科卒業。
趣味:歌、バイク、アニメ、特撮。[1]、[2]
中学1年の3学期(1982年)から、高校1年の3学期(1985年)までの約3年間、Jr.として所属した。
ジャニーズ退所後もダンサー・TETSUYAとして活動し、大学卒業後、1991年3月から1992年までディズニーランドのダンサーを務める。 その後、2009年10月、墨田区錦糸町にダンススタジオ「STUDIO COLORS」をオープン。代表を務める。 この他、代々木のスタジオ「BEAT BOX」や、浦和の「HERO DANCE COMPANY (後のDANCE STUDIO HEROES)」でもダンス講師をしていた。 専門ダンススタイルは主にLOCKIN'。 ダンスチーム「CO-IN LOCKERS」と「THINK」にも所属。 SMAPの中居正広やDA PUMPに振り付けをしたこともある。
2015年春には、インディーズレーベルのCOLORS RECORDSから、マキシシングルCD『SHAKE MY BODY c/w ビビッと!グッと!ハッと!もっと!Good God ! !』をリリースし、歌手デビューした。作詞・作曲も全て石井本人。
2018年5月、自身の公式LINEスタンプを制作、販売。
2022年5月8日の朝に妻が低栄養症により逝去したことを、同年7月7日にInstagramで報告。 - 板越英真 (後の板越ジョージ)
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いたごし てるなお。 1968年6月3日生まれ。葛飾区奥戸出身。A型。愛称:テルくん。
葛飾区立南奥戸小学校、同区立立石中学校、都立葛飾野高校普通科、サウスカロライナ大学国際政治学部、中央大学大学院戦略経営研究科卒業。
主な著書
- とにかく、どこかの会社にもぐりこむための77のヒント (1999年、扶桑社)
- リベンジ人生道場 (2002年、扶桑社)
- グラウンド・ゼロ (2002年、扶桑社)
- 結局、日本のアニメ、マンガは儲かっているのか? (2013年、ディスカヴァー・トゥエンティワン)
- アニメ・グローバル競争戦略再考 (2014年、ディスカヴァー・トゥエンティワン)
- クラウドファンディングで夢をかなえる本 (2014年、ダイヤモンド社)
主な企画本
- 未来のおとなへ語る 〜 私が芸術について語るなら (千住博 著、2011年1月、ポプラ社)
- 私が芸術について語るなら (千住博 著、2011年2月、ポプラ社)
ブログ (@、 A、 B、 C) X (旧Twitter) Instagram YouTubeチャンネル (@、 A)
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1981年、中学1年の春にジャニーズに入所。 同期生は百武治明。 日本テレビ開局30周年記念ミュージカル・ドラマ『夏の王様』(1982年10月16日)や、映画『あいつとララバイ』などに出演したが、「普通の高校生活を送りたい。そして、使い捨てのアイドルで終わるのではなく、使う側の人間になりたい」との思いで、1984年の都立高校入学後、間もなくして事務所を退所した。
高校卒業後、バイク便のアルバイトで100万円の留学費を貯め、1988年に渡米。サウスカロライナ大学国際政治学部を卒業し、ニューヨークを拠点に「板越ジョージ」の名で起業家・ジャーナリストとして活躍。
2002年より、ニューヨークのフリーペーパー「アメリカン★ドリーム」を創刊。 同時にニューヨーク異業種交流会の開催もスタートし、日系コミュニティーの活性化を図っている。
ジャニーズのタレントは元より、千葉真一、爆笑問題、辻仁成、千住博、弘兼憲史、大江千里など、実に幅広い分野での人脈を持っている。 - 岡田幸治
-
1968年7月2日生まれ。 顔が似ている有名人:DJ MASTERKEY。
田原俊彦に憧れ、定時制高校1年生だった1984年に16歳でジャニーズに入所。(1985年で入所と書かれた資料は誤植によるもの)
1985年のアイドル水泳大会の企画ユニット「少年隊ジュニア」のメンバー。
1986年末に退所。(所属年数が3年と書かれた資料は誤り。正確には2年半)
2023年9月11日、YouTubeチャンネル「Arc Times」のライブ配信に出演し、ジャニー喜多川からの性被害を告発、および「ジャニーズ性加害問題当事者の会 (Johnny's Sexual Assault Victims Association)」(略称:JSAVA)への加入を発表。[1]、[2]
『週刊文春』(2023年9月21日号、文藝春秋)でもジャニーからの性被害を告発。 東山紀之もジャニーの性加害行為を確実に知っている立場であることも訴えた。[3]、[4] - 倉田順一
- 栗原茂
1968年3月16日生まれ。東京都出身。身長:171cm、体重:68kg、B:92cm、W:76cm、H:90cm。 趣味:映画鑑賞、野球。 特技:水泳(遠泳)。 大東文化大学文学部中退。
TBS『3年B組金八先生 (第2シリーズ)』で活躍。 第11話「クソまみれの英雄達」でメイン。
1991年10月10日に放送された『TBS40周年記念特番 見た!笑った!泣いた! テレビ40年・総決算! すべて見せます!このチャンネル』にて、『3年B組金八先生 (第2シリーズ)』の元生徒たちが集った際、栗原も出演して司会者の古舘伊知郎&徳光和夫とトークした。
1992年より劇団「流山児★事務所」に入団し、舞台俳優、および舞台演出家として活動。 [1] - 小島政司
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こじま せいじ。 横浜市出身。明治学院高校卒業。
1983年12月4日にジャニーズ入り。 退所後はスターダストプロモーションに所属。 - 佐野好市郎
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東京都中野区出身。日本大学文理学部中国文学科中退。
2001年2月1日、後にニューヨークに本社を持つ国際広告会社「マッキャンエリクソン博報堂 (後のマッキャンエリクソン・ジャパン)」に入社。 新聞部部長、UM統合メディア局 渉外2部長を経て、2012年4月より媒体本部 媒体局 局次長 兼 3部部長に就任。 好きな歌手はTUBE。 - 菅沼文敏 (菅沼貴之の兄)
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1968年10月8日生まれ。静岡県浜松市中区出身。A型。 浜松市立佐鳴台 (さなるだい) 小学校、同市立蜆塚 (しじみづか) 中学校、静岡県立浜松江之島高校卒業。
ダンスレッスンには参加していなかったが、ジャニー喜多川から気に入られ、数々のテレビドラマ(『夏・体験物語U』、『な・ま・い・き盛り』、『あまえないでョ!』、『毎度おさわがせします 3』)のオーディションに誘われて受けたり、ジャニーズの合宿所にも出入りするという特殊な立ち位置に居た人物。
後に衆議院議員・塩谷 立(しおのや りゅう。自由民主党員。静岡県広告美術業協同組合顧問)の秘書、会計責任者に。 - 杉江雄二
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1968年4月5日生まれ。東京都大田区出身。A型。愛称:雄ちゃん。特技:野球。好きな女性タレント:石川秀美。
ジャニーズ入所前に、雑誌『週刊セブンティーン』の読者投票による男性コンテスト「セブンティーン ベストBF賞」に挑戦。最終のBEST18に残り、1985年10月1日号の誌面に掲載された。
このBEST18の中には、後に「息っ子クラブ」のメンバーとして活躍する岩城憲、佐藤吉紀、清水光 (こう) の3名も居た。 その後、姉に勧められてジャニーズ入り。 182cmの高身長だった。 堀越高校出身。 Jr.時代に仲が良かったのは土田一徳、矢部和志 (後のマイコーりょう)。
ジャニーズ退所後は日本初の男性専門モデル事務所「アダムス」に所属してモデル活動をしていた。
好きなアーティストはリンダ・ロンシュタット、安室奈美恵。 - 中岡真一郎 (後の通名:中岡亮介。福岡市から通い)
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1968年9月6日生まれ。福岡市出身。A型。 趣味:テレビゲーム。 兄弟は妹が2人。 ジャニーズ時代の憧れの先輩は近藤真彦。
小学校3年生の時に父親が病死。 以降、母子家庭で育つ。 母親はかつて渡辺プロダクションに所属していた元モデル、タレント。
高校1年の時にモスバーガーのアルバイトに応募するため、隣のクラスの女友達に履歴書と写真を渡した所、その女性(岡本健一のファン)が履歴書をこっそりジャニーズ事務所に送付。 その結果、1985年の後半、高校2年の17歳になってから、オーディションの通知が中岡の自宅に届く。 しかし突然届いたその通知の意味が分からなかった中岡は、オーディションには行かなかった。 すると今度は同年11月22日(金曜日)にジャニー喜多川から直接電話が来て、「マッチが好きなの? マッチに会わせてあげるよ」との言葉で原宿の合宿所へ招かれる。
11月23日(土曜日)、新幹線のこだまに乗り、約10時間かけて上京。 そして直接合宿所を訪ねて、オーディション無しの特待生としてジャニーズに入所した。
合宿所ではまずグレーのスーツを着たジャニー喜多川が登場。 対面するなりジャニーから、「You、不良みたいだね」と言われた。 そして中岡が持参した福岡土産の明太子を使ってジャニーがパスタを作り、ちょうど帰って来た田原俊彦も交えて、3人で一緒にパスタを食べた。
11月23日はジャニーに河田町のフジテレビに連れていかれ、憧れの近藤真彦に会わせて貰い、中岡は近藤の前で嬉し泣きをした。 そして合宿所に戻ると、男闘呼組の岡本健一から話しかけられ、リビングで一緒にファミコンのゲームをして遊び、そのまま合宿所に宿泊。 翌24日にはジャニーズJr.のダンスレッスンにも参加した。
ジャニーは、中岡をテレビドラマ『3年B組金八先生スペシャルW』(1985年12月27日放送)に岡本健一の弟役としてねじ込んでデビューさせようとしたが、中岡の博多弁が強すぎたためにプロデューサー判断でNGとなり、台本にも弟役は追加されずに終わった。
その後、バラエティ番組『アイドル花組おとこ組』(1986年1月〜3月、日本テレビ)内の企画ユニット「桜隊」に投入される。 中岡は近藤真彦の不良っぽさに憧れていたため、番組出演中もわざと眉間にしわを寄せたりなどしていたが、ジャニーからは「Youはトシだね (近藤真彦ではなく田原俊彦タイプだね)」と言われていた。
博多弁があまりに強かったせいか、男闘呼組のメンバーの内、番組開始当初は中岡に近寄って来てくれるのは同じく地方出身者である成田昭次だけだったが、番組が終了する頃には岡本健一と一番親しくなった。 また、同番組に出演していたジャニーズJr.の佐藤寛之と揉めてしまい、日本テレビ内で取っ組み合いの喧嘩をしたこともあった。
中岡は番組収録の度に福岡から東京へ飛行機で通わせてもらう待遇を得ており、次はテレビ東京のバラエティ番組『ここんちプラネッと!』への出演も決まっていたが、『アイドル花組おとこ組』の終了と同時に事務所を退所した。 理由は片親だったことと、福岡の高校にも引き続き通いたかったため。
1989年3月28日、20歳の時に福岡から東京に転居。 その後、ムード歌謡の歌手・敏いとうにスカウトされ、「敏いとうとハッピー&ブルー」の付き人を1年間経験。
1994年、25歳の時に芸能事務所「インターフェイスプロジェクト」の社長・竹内健晋にスカウトされて同事務所に所属し、アイドルグループ「維新組」に参加。
その後、結婚をし、不動産会社に就職してテナントコンサルタント(企画営業)を担当。 また、名前の画数を気にして「中岡亮介」を通名とするようになった。
2020年4月23日に配信リリースされた、なかよし先生(中谷昌文)の楽曲『タイガーマスク (Cover Version)』と『みなし児のバラード (Cover Version)』にコーラスで参加 (プロデュースは平本淳也)。
福山雅治の大ファン。 なお、書籍『ジャニーズおっかけマップ ’97』(1997年1月、鹿砦社)では、中岡は「血液型:B型」、「維新組の解散後は秋葉原の電気店のラオックスにて携帯電話販売員となった」と記されているが、中岡本人はSNS上で「血液型はA型」、「ラオックスでは働いていない」と訂正している。 - 中村剛 (大阪から通い)
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なかむら たけし。 1968年9月5日生まれ。大阪府枚方市出身。B型。愛称:ゴー。
中学2年生だった1982年の夏休みにジャニーズに入所。 在籍後期には、同じ大阪からレッスンに通っていた後輩の張田政宏とよく一緒に行動していた。 - 西野浩一 (滋賀から通い。正式にはジャニーズ入りしておらず、「桜隊」への参加のみ)
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にしの ひろかず。 1968年10月13日、兵庫県宝塚市生まれ、滋賀県育ち。滋賀県立堅田高校卒業。A型。愛称:ヒロ。
桜隊での活動後は、京都・寺町京極商店街にあった海賊版商品のアイドルショップで一時アルバイトをしていた。 そして滋賀を拠点にロックのシンガーソングライターとして活動するようになった。 - 三浦順一 (1月25日生。神奈川県出身。A型)
- 矢部和志 (後の矢部良、マイコーりょう)
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やべ かずし。 1968年10月14日生まれ。千葉市出身。A型。
マイケル・ジャクソンの『スリラー』に影響されてダンスが好きになり、自ら応募して中学2年生の時にジャニーズに入所。 中学3年時は高校受験のためにレッスンには行かなかったが、高校1年から復帰。 ダンスが上手かったため、数々の先輩のバックダンサーをこなしたが、このままここに居ても未来は無いと悟り、1986年、高校3年の時にジャニー喜多川に電話を掛けて退所した (本人の「高校2年で退所した」という発言は記憶違いによるもの)。 Jr.時代に仲が良かったのは土田一徳、杉江雄二。
高校3年生の時、ダンススタジオで知り合った仲間たちと、代々木公園で開催された「第3回 マクドナルドダンスコンテスト」に参加し、優勝。 審査員は名倉加代子。
後にホリプロへの所属、東京ディズニーランドのショーダンサー、少年隊の錦織一清のそっくりさんとしてテレビの素人ものまね番組出演。 そして1991年12月31日には、『NHK紅白歌合戦』に少年隊の『MASK ’91』のバックダンサー「ダンシングスペシャル&D.O.S.ダンサーズ」の一員として参加。 そのリハーサルの際にジャニー喜多川と5年以上ぶりに再会し、「お〜、すごいおじさんになったねぇ」と言われ、名前もまだ覚えられていた。
その後、ものまね芸人・コロッケの専属バックダンサーなどを経て、2006年8月から「マイコーりょう」の芸名を名乗り、マイケル・ジャクソンのインパーソネーター(インパソ)、ものまね芸人となる。
2009年6月より「オフィス北野」に所属。 数多くのテレビ番組に出演し、『『ぷっ』すま』(テレビ朝日)では草g剛、『Goro's Bar』(TBS)では稲垣吾郎と共演した。 2013年12月をもって同事務所を退所。
短期間のフリーランスを経て、2014年5月より「G.G.Company」に所属。 同年9月より、「G.G.Company」とは業務提携の形をとりながら再びフリーランスに戻った。 そして9月23日放送の『中居正広のミになる図書館 2世タレント大集合スペシャル!』(テレビ朝日)にコロッケの娘の知り合いとして出演し、中居正広とも共演した。
一方、1993年のアメリカ映画『オンリー・ザ・ストロング』にて格闘技のカポエイラに影響され、1995年に単身ブラジルに渡り、カポエイラの本場、バイーア州サルバドールにある道場にて日本人初の弟子となる。 メストリ・ビンバの直系の弟子であるメストリ・バンバの下で修行をし、カポエイラを修得。 帰国後、日本人としては初のカポエイラの道場「カポエイラ・ヘジョナル・ジャパン」を創設し、「矢部良 」名義で東京本部代表、師範代を務める。 国内で初めてのカポエイラの教則DVDも出した。 K-1の異種格闘技戦にも出場したが、武蔵を相手に敗北している。
また、村上信五のソロ曲「『愛 Love You』」のMV(2014年11月5日発売の関ジャニ∞のアルバム『関ジャニズム』の初回限定盤BのDVDに収録)に、バックダンサーとして出演している。
2020年春、「ジンセイプロ」に所属。
2020年9月26日より、田原俊彦、ジャPAニーズ、近藤真彦、少年隊などの歌真似&完全コピーダンス動画をYouTubeに投稿開始。 田原ファン垂涎の高難度の『ジャクソンズメドレー』にまで挑戦している。
[1]、 [2]、 [3]、 [4]、 [5]、 [6]、 [7]、 [8]、 [9]、 [10]
1969年生まれ
- 新井〇〇
- あらい。 東京都出身。 1980年代後半に所属していたJr.。 ダンスが非常に上手かった人物。 顔がスーパーマリオに似ていたため、Jr.内では「マリオ」と呼ばれることがあった。 同学年のJr.の藤本と仲が良かった。
- 新井紀一
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あらい のりかず。 1969年6月11日生まれ。O型。 群馬県邑楽郡から通っていたJr.。 中学時代は校則のせいで坊主頭だった。
テレビドラマ『王貞治物語 〜 我が青春の甲子園』(1982年7月28日&8月4日、TBS)、 『年ごろ家族』、『金曜日の妻たちへU』(西村信一役)に出演。
群馬県立館林高校を1988年3月に卒業、明治大学商学部を1993年3月に卒業し、1996年7月より出版社「世界文化社」の広告部にて広告営業マンに。肩書きは広告本部課長。 ファッション週刊新聞紙『WWDジャパン』(2006年4月3日号、INFASパブリケーションズ)の、31ページ目の右端のメモ欄に、
「世界文化社の新井紀一・広告本部課長は、ジャニーズ事務所出身で、光GENJIのメンバーだった大沢樹生と同期。 新井氏は『金曜日の妻たちへ』で篠ひろ子の息子役を好演し注目を集めた」
という、一行だけの小さなコメントが掲載されたことがある。(注:正確には大沢と同期というのは間違い。ジャニーズに入ったのは大沢の方が先)
好きな食べ物:焼肉、赤ワイン。 好きな観光地:ハワイ。 好きな音楽:サザンオールスターズ。 週末はジムに通って体を鍛えている。
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- 岡村光一
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1969年12月23日生まれ。群馬県館林市出身。AB型。
好きなアーティスト:サザンオールスターズ。 好きな言葉:「疾風に勁草 (けいそう) を知る」。
舞台俳優・ダンサーの小暮キヨタカ(本名:小暮清貴。劇団四季出身)は幼馴染み。
1983年12月にジャニーズに入所。
後に総合建設会社の代表取締役となり、更に経営コンサルタントとしての活動も開始。
2005年に結婚。
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1969年12月23日生まれ。群馬県館林市出身。AB型。
好きなアーティスト:サザンオールスターズ。 好きな言葉:「疾風に勁草 (けいそう) を知る」。
舞台俳優・ダンサーの小暮キヨタカ(本名:小暮清貴。劇団四季出身)は幼馴染み。
- 小田賢太郎
- 小林篤志 (8月18日生。静岡県から通い。愛称:アッチ。レッスンに通ったのは5〜6回のみ。ジャニーズ退所後は「ESCAPE」のメンバーに。NMB48のファン)
- 鹿内和博
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しかない かずひろ。 愛称:カズ。O型。1969年7月23日生まれ。横浜市保土ケ谷区上菅田町出身。
横浜市立笹山小学校、同市立上菅田中学校卒業 (JJSの林正明、ABブラザーズの松野大介も同じ中学)。
お笑い芸人の山崎まさや(元「ジョーダンズ」)は親友で、幼稚園、中学校、そして居酒屋でのアルバイトが一緒だった。[1]
テレビドラマ『年ごろ家族』の第1話や、『ロッテ 歌のアルバムNOW』(1986年6月1日 - 1987年9月27日、TBS)などに出演。 1986年頃に、雑誌『週刊セブンティーン』にモデルとして掲載されたこともあった。
ジャニーズ退所後は居酒屋バイトで飲食業の経験を積み、結婚した妻と共に藤沢・辻堂駅西口(南側)にて、海鮮ダイニングバー「food's bar NABURA (ナブラ)」を2007年頃にオープン。 更に2013年春には、NABURAの2階にも新たにカジュアルバーをオープンした。 [2]、 [3]
また、犬・猫の殺処分ゼロを目指し、全国の動物愛護団体への支援活動と場の提供を行うプロジェクト「ZERO PROJECT」を立ち上げ、代表を務めている。 同プロジェクトのイベントには、幼馴染みの山崎まさやにも出演してもらっている。 [4]、 [5]
趣味は釣り。 - 武末守嗣
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たけまつ もりつぐ。 1969年10月30日生まれ。東京都羽村市出身。A型。
- 橋本久良生 (後に一時期、橋本久良王に)
- 福永吉洋
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ふくなが よしひろ。 1969年6月6日生まれ。山口県出身。 初めて立ったステージは、1988年8月の少年御三家コンサート「少年武道館 夏の陣」。
「アイワントリオ」の一員。
ジャニーズ退所後は、東京ディズニーランドのダンサーを経て、さいたま市浦和区で店を経営。 弟と共にミュージカルカンパニー「TSミュージカルファンデーション」にも所属し、ミュージカル俳優としても活動。 また、2005年には5人組のプロデュース集団「見上げたボーイズ」も結成した。
2011年、テレビ東京『しまじろうヘソカ』にレギュラー出演。
2015年より数年間、シニアモデル専門事務所「シニアリストモデルエージェンシー」に所属。
なお、同じくミュージカル俳優である弟の福永たかひろ(本名:福永敬洋、愛称:ターくん)は、1999年4月に劇団「東京HOME BOYS」を旗揚げ。 「JAM STUDIO 南砂」にてジャズダンス講師もしていた。 2012年10月13日には、イオンモール与野での山本淳一のインストアライブのバックダンサーも務めた。 [1]、 [2] - 藤本〇〇
- 前薗宏一郎
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まえぞの こういちろう。 1969年6月25日生まれ。横浜市保土ヶ谷区出身。O型。
1985年7月16日放送のフジテレビ『火曜ワイドスペシャル 第16回 オールスター紅白水泳大会』では「前園」と誤植。
テレビドラマ『妻たちの課外授業』(1985年10月9日 - 1986年3月26日、日本テレビ)に、PTA会長の息子・英治役で出演し、成田昭次、前田耕陽と共演した。
ジャニーズ退所後は、山根健一が経営していた横浜市中区のホストクラブ「DANDY」と「ナイルクレセント」にて副社長 兼 ホストを務めたり、亡き飯島愛と交際していた時期もあった(飯島が池尻大橋在住の頃)。
2歳年下の妹は元・セクシータレント、女優の前薗小百合。 (1992年のVシネマ『難波金融伝 ミナミの帝王 2 計画倒産』のテロップでは「前園」と誤植) - 松崎優
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まつざき ゆう。 1969年2月19日生まれ。千葉県船橋市出身。A型。 4人兄妹(上から男、男、女、女)の長男。
私立秀明八千代高校卒業。 高校の1年後輩に山崎正人、2年後輩に佐藤寛之、4年後輩に小林直行がいた。
小学生の頃からローラースケートを始め、体操クラブにも所属。 バック転も小学生の時点でマスターしていた。
高校時代にジャニーズに所属。 1987年1月1日に行われた少年隊の日本武道館コンサート「NEW YEAR CONCERT ’87」にて、錦織一清のソロ曲『FRIDAY NIGHT』のバックに出演した。
1987年3月に高校を卒業すると同時にジャニーズからも退所。 なお、ジャニーズと並行して暴走族にも所属していた。
また、3歳年下の弟・松崎浩二もジャニーズJr.、上の妹・松崎真由美もモデル・タレントだった。 - 松原一平
- 好きな映画 - チャオ・パンタン、欲望の翼、汚れた血、グラン・ブルー。
- 好きなスポーツ選手 - ジル・ヴィルヌーヴ(Joseph Gilles Henri Villeneuve。亡きF1ドライバー)
1969年12月8日生まれ。杉並区出身。O型。愛称:ケロ、一平。 身長がとても高く、185cm位あったが、当時のプロフィールではわざと「179cm」と低めに公表していた。
ジャニーズを退所後、映画『かっ鳶五郎』(1997年11月22日公開)に、髪を金髪にして月組の幹部組員役で出演。
その後、2002年に女性モデル専門のモデルエージェンシー「株式会社アガペー」(エイベックスグループ)を設立し、代表取締役社長に。 更に関連芸能事務所「株式会社リエヴェ」も設立した。
2011年1月14日(金)の深夜に、TOKIOのリーダー・城島茂と約20年以上ぶりとなる再会を果たした。 - 宮崎和夫
1969年8月23日生まれ。横浜市旭区出身。B型。愛称:宮ちゃん。 横浜市立上白根小学校、同市立鶴ヶ峯中学校、私立武相高等学校 (男子校)、国際観光専門学校卒業。
元々は児童劇団 → スターダストプロモーションの順で所属していた。 そして田原俊彦や近藤真彦に憧れ、中学3年の時にジャニーズ事務所に応募し、高校1年で入所。
3年後の1988年にジャニーズを退所。 在籍中に特に仲が良かったのは山本淳一だった。
21歳より東京ディズニーランドで準社員として勤務。 「スペース・マウンテン」のキャストや、「ジャングルクルーズ」のスキッパー船長役を務めていた。
その後、横浜市青葉区藤が丘のフィットネスクラブ「アクア藤が丘」(株式会社 明治スポーツプラザ)に就職。 健康運動指導士の資格も取得し、やがてチーフ・インストラクターとなった。 そして「相模原市立総合体育館 (相模原ギオンアリーナ)」への出向インストラクターを経て、千葉県木更津市の支店「アクアかずさ」の店長に就任し、同市に転居。
好きな食べ物:カレー、ラーメン。 顔が似ている有名人:お笑いコンビ「見取り図」のリリー。
関連項目
- ジャニーズJr.
- ジャニーズJr. 一覧 (五十音検索)
- ジャニーズJr. (関東組) 一覧
- 関西ジャニーズJr. 一覧
- 名古屋ジャニーズJr. 一覧
- 元気Jr.
- ゲスト参加者
- 『ジャニーズJr.名鑑』
- ジャニーズ事務所 歴代所属者
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