ジャニー喜多川 - ジャニーズ百科事典
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ジャニー喜多川

ジャニー喜多川(ジャニー きたがわ、Johnny H. Kitagawa、アメリカ時代の本名:ジョン ヒロム キタガワ 〔John Hiromu Kitagawa〕、日本での本名:喜多川 擴 〔きたがわ ひろむ〕、1931年〔昭和6年〕10月23日 - 2019年〔令和元年〕7月9日)は、日本の元・実業家、芸能プロモーター。 ジャニーズ事務所、および関連会社のジャニーズ出版、ヤングコミュニケーション、つづきスタジオの旧代表取締役社長。 ジャニーズアイランド旧代表取締役会長。 ジェイ・ドリームの旧代表取締役社長 (名義だけの幽霊社長)。
ロサンゼルス生まれの日系二世 (両親共に日本人)。 身長:153cm。 血液型:AB型。 87歳没。
姉はジャニーズ事務所の取締役副社長・メリー喜多川


   


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来歴

  • ジャニー喜多川の父親は、僧侶の喜多川諦道 (きたがわ たいどう)。 1896年(明治29年)、大分県生まれ。 高野山大学卒業。

      
           右は諦道の妻・栄子

        

    諦道は8歳で稚児(少年修行僧)として出家し、やがて和歌山県高野山の導師となる。 放蕩三昧で、自ら「やくざ」や「遊び人」と称する異色の坊主だった。
      (「諦道は高校時代に野球で甲子園に出場した」と書かれた文献が存在するが、これは誤報。 そもそも諦道の高校(当時は旧制中学校)時代には、高校野球も甲子園もまだ存在すらしていない。 全国高等学校野球選手権大会の開始は1915年 〔当時の名称は全国中等学校優勝野球大会〕。 阪神甲子園球場の完成は1924年)

    諦道の師の僧正が大隈重信後藤新平らと親しくしていたことから、諦道も海外への思いを強めるようになり、 諦道を可愛がっていた和歌山市の有力者・大谷家(息子の大谷貴義〔1905年5月31日 - 1991年5月17日〕は宝石商として財を成し、児玉誉士夫と並んで「戦後最大のフィクサー」と呼ばれた人物で、元首相の福田赳夫のパトロンでもあった)からの援助を受け、諦道は真言密教の布教のために1924年(大正13年)2月より世界一周の旅に出発した (当時27歳)。 大谷家との繋がりは、元々、諦道の父母が大谷家で世話になっていたことがきっかけであった。
    そして同2月、ロサンゼルスのリトル・トーキョーのサウス・セントラル・アベニューにあった「高野山真言宗 高野山米国別院」(愛媛県人1世らが大半の発起人となって1912年〔大正元年〕11月24日発足)の大使教会に到着。
       
    ここではほんの2〜3ヶ月だけ助法し、また世界一周旅行を続けるつもりだったが、当時の主監(最高責任者)が急に帰国することになったため、急遽、諦道が第三代主監となる。  以後、1933年までの9年間、米国大使教会の運営を務めた。
    (ネット上では諦道が居た場所を、同じリトル・トーキョーの「真宗大谷派 東本願寺ロサンゼルス別院」とする記述も多数あるが、それは誤り)

    諦道は活発な布教活動に精を出し、ロスの日系人社会の顔役となる。 ハリウッドのランドマーク「グリフィス天文台」の麓に居を構え、大阪に居た妻・栄子も呼び寄せた。 そして生まれたのが、泰子(メリー喜多川)、真一(まさかず。愛称:マー坊)、そして擴(ひろむ。ジャニー喜多川。愛称:ヒー坊)の三姉弟だった。
    諦道は毎週金曜日には寺院で婦人会を集めた料理教室を開いたり、日曜日にはサンデースクールとボーイスカウトも始めた。 ボーイスカウトは第79隊 (後に第379隊に改称) で、日系人少年33人で1931年に結成。(正式発足日は1932年2月7日。 この79隊は、世界恐慌当時の反日の偏見に対し、日系人の子どもたちに自信をつけさせた他、1934年2月11日にはフランクリン・ルーズベルト大統領から表彰され、「ルーズベルト大統領賞」を受賞した)
    また、ジャニーの母・栄子は日本舞踊の名取だったため、婦人会では日舞や踊りの練習、発表会が頻繁に行われていたので、諦道は婦人会の力を借り、違う宗派も集めた盆踊り大会を開催した。 (この盆踊り大会は、1934年より、リトルトーキョーで毎年8月に行われるフェスティバル「二世週日本祭 (にせいしゅうにほんまつり)」へと発展していった)

  • 当時はまだ日米開戦前だったため、喜多川一家は日系移民の強制収容所に送られることもなく、1933年7月26日、サンフランシスコ港から貨客船「秩父丸」に乗って横浜港に到着し、大阪に移り住んだ。 (ネット上ではジャニーやメリーがアメリカで強制収容所に収容されていたとする記事が多数存在するが、これも誤報)
    諦道は道頓堀にある高野山真言宗の寺「法案寺」の住職の世話で、後にプロ野球チーム「ゴールドスター」のオーナーとなる、橋本三郎の下で働くようになった。
    翌1934年、母・栄子が京都で逝去。 以来、メリーが2人の弟の母親代わりとなった。

  • やがて第二次世界大戦が始まり、1942年(ジャニーは当時10歳)、父・諦道だけが大阪に残り、三姉弟は、和歌山市の有力者・大谷家が和歌山県東牟婁郡勝浦町(後の那智勝浦町)に持っていた島「中ノ島」の南紀勝浦温泉に身を寄せて疎開。  ジャニーはこの「中ノ島」から尋常小学校へ、更に、坊主頭に詰襟の制服を着て旧制中学校へと通った。  中学2年の初夏、ジャニーは一人で大阪に遊びに行った帰りに、1945年7月9日(月曜)深夜から7月10日(火曜)未明にかけて、和歌山市街にて「和歌山大空襲」に遭遇したが、無事に逃げおおせた。
      (一方、三姉弟と離れて大阪で暮らしていた父・諦道は、橋本三郎が1946年2月に大阪で創設したプロ野球チーム「ゴールドスター (翌1947年に「金星スターズ」に改称)」のマネージャーを、1948年2月まで2年間務めていた。
      その後、諦道は橋本三郎の親族が経営する心斎橋の煎餅屋「杵萬」に居候するようになり、やがて昭和40年代にそのまま「杵萬」で逝去。  葬儀は大阪の三津寺で盛大に行われ、僧侶も多数参列したが、ジャニーやメリーが姿を見せることは無かった。
      なお、「寿」の字が書かれた諦道の書(掛け軸)が、京都府長岡京市「楊谷寺 (通称:柳谷観音)」の上書院の2階の床の間に飾られている)
       
       (左側の文字は「高野山前官大僧正諦道」。 そして左下の落款印が右読みで「諦道」)

  • 1947年3月にジャニーが旧制中学校を卒業すると、三姉弟は「市民権(米国籍)が無くなってしまうから」との理由で、横浜港からLST(米軍の軍用船)に乗って渡米し、再びロスに移り住む。 そしてジャニーはロスの高校に通いながら英語を学び、地元の老舗劇場 [1] にて音楽監督 [2] のアシスタント(雑用係)のアルバイトを経験する。
    高校卒業後は、姉のメリーと同じロサンゼルス市立短期大学 (Los Angeles City College) [3] へ進学。
    ちょうどその頃、終戦後で劇場などが少ない時期だったこともあり、「高野山米国別院」の新寺院(1940年8月完成。リトル・トーキョーのイースト1stストリート342番地)の説教用の集会場「高野山ホール」(収容可能人数は約千人)のステージを、日本からやって来るスターたちが次々に利用するようになった。
     
    (以下の3枚は1枚目が2006年時、2・3枚目は2012年時)





    まず最初は、1950年に田中絹代が日米親善芸術使節として訪れた。 そして、笠置シヅ子&服部良一(1950年6月1日〜3日)、大河内伝次郎、山本富士子(1951年、初代ミス日本としての公式訪米)、古賀政夫、ディック・ミネ、高峰美枝子、霧島昇、二葉百合子など、そうそうたる面々が寺院のステージに立った。 ジャニーはその度に、現地コーディネーターと通訳を買って出ていた。  1950年5月に美空ひばり(当時12歳)が、人気絶頂だったボードビリアン・川田義雄(後の川田晴久)と共に二世部隊記念碑建立基金募集公演のために渡米した際も、高野山ホールのステージがロス公演の会場となったため、ジャニーはステージマネージメント全体を担当。 川田晴久の知遇を得ると共に、美空ひばりとも交流を深める。 これらのことが、やがてジャニーが日本芸能界への進出を志すきっかけとなった。

  • ロス市立大学を卒業したジャニーは、メリーと共にハウスボーイ(家政婦業)をして生計を立てていた。 優秀だった兄のマー坊はUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)を卒業し、宇宙船関連の航空機メーカー「ノースアメリカン・ロックウェル・コーポレーション」のエンジニアとなっていた。 また、三姉弟は有名な日系写真家・宮武東洋(1895年 - 1979年、香川県出身)がロスのリトル・トーキョーで経営していた写真館を手伝ったりもしていた。 この他、メリーはハーバーシティの日本語学校で教えていたこともあった。

  • 1952年、アメリカ国籍だったジャニーとマー坊には兵役義務があり、当時勃発していた朝鮮戦争に徴兵される。  兄のマー坊は、パラシュート部隊で優秀と認められ、幹部付きの当番兵となった。  一方ジャニーは、アメリカの情報機関 「CIA (Central Intelligence Agency、中央情報局)」 [4] を介して韓国の戦災孤児に英語を教える任を命ぜられ、広島県江田島市の海軍兵学校跡地を使用した米軍の学校「江田島学校」(1955年一杯まで米軍および英連邦軍などが使用)で朝鮮語を習得するため、1952年に通訳の助手という肩書きで再来日する。 そして10ヶ月で朝鮮語をマスターし、韓国の板門店 (発音:パンムンジョム、日本語読み:はんもんてん) に出向いて、1年2ヶ月間に渡って子供たちに英語を教えた。 ただしこれはCIAからの仕事であったことから、ジャニーは情報収集のために送り込まれたスパイだったと言われている。
      (朝鮮戦争後のマー坊は、ロサンゼルスのガーデナに住みながら、前出のノース社でNASA関連の仕事をし、アポロの設計にも携わったが、1985年、くも膜下出血で倒れる。 メリーが日本に連れ帰り、大阪の病院に入院させるも、50代半ばで逝去した。 なお、日本人女性の妻との間には娘をもうけている)

  • 除隊後はアメリカへ戻らず、日本に滞在。 上智大学国際部 [5] に社会人入学し、1955年にはバンドを結成して自らも芸能界へ参入した。 大学卒業後にバンドは解散。

  • ジャニーはその後、英語力と滞米経験を買われ、ワシントンハイツの中に1955年に建てられた独身米軍士官向けの4階建ての宿舎(後の渋谷区神園町「国立オリンピック記念青少年総合センター」) に住みながら、アメリカ大使館勤隷下に組織された駐留米軍の一セクションである「在日アメリカ軍事援助顧問団 (Military Assistance Advisory Group-Japan。通称:マグジェイ 〔MAAG-J〕。後の在日相互防衛援助事務所)」の事務職員として、旧防衛庁(霞が関)に在った顧問団の事務所に1958年より勤務。 (1960年1月11日より防衛庁が霞が関から赤坂の檜町地区 〔後の東京ミッドタウン〕 へ移転。  また、ワシントンハイツは1964年に東京オリンピックの開催を機に日本に全面返還され、ジャニーが住んでいた宿舎は五輪の女子選手村として使用されることになったため、ジャニーは1964年までにワシントンハイツから新宿区四谷3丁目へ転居した)
    そして、大学時代にバンドのマネジメントなども担当していた経験から、1962年、ジャニーにとって最初に手がけるアイドルグループ「ジャニーズ」を作り出し、タレントのプロデュース業に軸足を移していった。 マネージメント活動が忙しくなると、軍事援助顧問団での仕事はずっと休職状態が続き、1966年、正式に退職した。

    ※ ジャニーズ事務所設立への流れは、設立を参照。

  • 2019年6月18日 午前11時30分頃、ジャニーが渋谷区の高層マンションの最上階にあるペントハウスの自宅で、家政婦に体調の異変を訴え、病院に向かおうとした所、意識を失う。 そして家政婦の119番通報で、同区広尾の日本赤十字社医療センターに救急搬送される。 集中治療室(ICU)で救命措置を施し、一般病棟に移ってそのまま入院。 診断結果は、解離性脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血。 自宅で倒れて以降、意識が戻らぬ状態が続いていたが、入院生活22日目の同年7月9日、16時47分に逝去。 87歳没。

        

  • 同年7月12日、ジャニーズアイランドが入居している渋谷のMTBビルの最上階(12階)にあるジャニーズJr.のレッスンスタジオ(幅15m、奥行き35m)にて、Jr.を含む約150名の所属タレントたちと滝沢秀明だけで家族葬が営まれ、同日に荼毘に付された。 出棺の際にジャニーの遺影を持って霊柩車の助手席に乗ったのは滝沢だった。

  • 2019年9月4日、東京ドームでジャニー喜多川の「お別れの会」が行われた。 会は2部制で、11時からが「関係者の部」、14時から20時までが「一般の部」。 関係者の部には所属タレントを始め、事務所を辞めたタレントたちが出席したが、案内状(返信用ハガキが入った封書)が届いたメンバーはジャニーズ事務所でレコード・CDデビューを経験し、連絡先が分かっている人のみ。 セレモニー全体の演出は、滝沢秀明がメインとなって手がけた。
    出席した所属タレントは、 近藤真彦東山紀之植草克秀内海光司 (報道からは漏れているが内海も少しだけ出席していた。長居が出来なかった理由は、舞台の稽古があったため)、 岡本健一佐藤アツヒロ、 中居正広、 木村拓哉、 TOKIO、 KinKi Kids、 V6、 嵐、 NEWS、 KAT-TUN、 関ジャニ∞、 Hey! Sey! JUMP、 Kis-My-Ft2、 A.B.C-Z、 Sexy Zone、 ジャニーズWEST 、 King & Prince、 生田斗真、 風間俊介、 屋良朝幸内博貴中山優馬浜中文一、 ふぉ〜ゆ〜、 SixTONES、 Snow Man、 Travis Japan、 HiHi Jets、 少年 (佐藤、金指、藤井、岩アのみ) 7 MEN 侍 (中村、本、佐々木、矢花のみ)、 宇宙Six、 MADE、 なにわ男子 (西畑、高橋、大橋のみ)、 少年忍者 (北川、内村、ヴァサイエガ渉、元木、織山、安嶋、平塚、豊田、黒田、深田、檜山、青木、稲葉、久保、川崎のみ)、 Jr.SP、ジャニーズJr. (林翔太、高田翔、寺西拓人、野澤祐樹、室龍太、小川優)の、全155名 (報道では154名)。  錦織一清、山下智久、長谷川純、岡本圭人、松島聡、岩橋玄樹の6名は不参加。
    OBからは、飯野おさみ永田英二郷ひろみ葵てるよし、 板野俊雄、 小坂まさる森谷泰章曾我泰久松原秀樹井上純一、 卯野直敏、 豊川誕殿ゆたか、 大野祥孝、 川ア麻世長谷部徹吉本和子ボビー吉野・ひろみ夫妻、 鈴木則行ひかる一平薬丸裕英布川敏和西条昇衛藤浩一柳沢超中村繁之宇治正高大沢樹生正木慎也佐藤寛之成田昭次高木延秀KNOB (中村亘利)前田耕陽 (遅れて午後に来たため「一般の部」に関係者入口から入場)、 木野正人赤坂晃佐野瑞樹今井翼Taka (森内貴寛)田中聖が「関係者の部」に参列した。
    一方、元ハイ・ソサエティーの元持勲、元ジャニーズJr.の平本淳也、木暮毅、石丸志門、石井哲也、藤沢裕介、中本雅俊、蓬田利久、中岡真一郎、伊藤智之、大嶌忍、星英徳、小原裕貴国分博古屋暢一、三浦勉、尾身和樹、川野直輝、提箸一平、田中純弥、大堀治樹、田中大樹、高橋実靖、元研修生の長渡康二らは、「一般の部」に参加。 浅倉一男(元・浜田一男)は午前中にドームに訪れたが、列に並んで中に入ることはせずにその場を後にした。
    ジャニーズタレント以外からも、(以下五十音順) 青木源太アナウンサー、秋元康、芦田多恵、生島ヒロシ、石井ふく子、伊集院静、泉ピン子、今村良樹 (元「ずうとるび」。息子がジャニーズJr.の今村隼人)、内館牧子、うつみ宮土理、大久保好男 (日本テレビ会長)、小倉智昭、 北大路欣也、北島三郎、久米宏、黒木瞳、黒柳徹子、駒井千佳子、 SAM、山東昭子、 大地真央、武田鉄矢、舘ひろし、司葉子、デヴィ夫人、テリー伊藤、徳光和夫、 中山秀征、名倉加代子、 爆笑問題および太田光代、服部克久、林真理子、船山基紀、堀尾正明、 前田美波里、馬飼野康二、真琴つばさ、桝太一アナウンサー、松井五郎、松浦勝人、真矢ミキ、未唯、三浦知良・りさ子夫妻、みのもんた、森公美子、森浩美、 和田アキ子など、数多くの著名人が「関係者の部」に訪れた。  元俳優・歌手の川原田新一も、平本淳也に誘われて「一般の部」に参加した。  「関係者の部」への参加者は約3,500名、「一般の部」への参列者は約8万8,000名に及んだ。
    弔電もたくさん届き、その中から安倍晋三首相の弔電を近藤真彦が代読し、大型ビジョンにも文面が映し出された。 また、「関係者の部」に参加した者にのみ、メッセージカードと、ジャニー喜多川の幼少時など、多くの秘蔵プライベート写真が詰まった特別なフォトブック『Thank You & Forever Johnny』(A5判、厚さ約1.5cm)が引き出物として配られた。 「一般の部」への参列者には、同年7月の家族葬で撮影された祭壇の写真がプリントされたポストカードが、退場時に配布された。
    なお、参加するかが注目されていた元SMAPの3名(稲垣吾郎草g剛香取慎吾)は、仕事を理由に欠席。 元TOKIOの山口達也も、案内状は届いたが出席は辞退した。


人物、エピソード

  • 好きなもの - 野球、麻雀、演歌、イリュージョン、歴史 (特に楠木正成と彰義隊に共感を覚える)

  • 好きな言葉 - 「勝てば官軍」

  • 食事は甘党。 好きな食べ物は焼肉、ビーフストロガノフ。 酒はあまり飲まない。

  • おしゃべり好き。

  • 咳払いをよくする。

  • 若い頃は非常に短気で、怒る前になると唇がピクピクと引き攣る癖があった。

  • THE GOOD-BYE」の衛藤浩一や、「ORIGINAL LOVE」の田島貴男に顔が似ていると言われることがある。

  • 美空ひばりが1988年4月11日に「不死鳥コンサート」を開催した際、美空のために会場の東京ドームを押さえてあげたのがジャニーだった。

  • 人に対する好き嫌いが非常に激しい。 人を一瞬で好きになるが、一瞬で嫌いにもなる。
    ジャニー喜多川というたった一人の人間の、ほんの些細な意向、気まぐれによって、膨大な数の少年たちの人生がいとも簡単にバタバタと変えられてしまう。 本来ならスターになれる逸材であっても、ジャニーの個人的な感情一つでその道は断たれてしまう。 逆に気に入られればスターにされ、億万長者にもなれる。 ジャニーがもたらす影響力はあまりにも大きいがゆえに、残酷でもある。

  • フォーリーブスの江木俊夫は自著の中で、「ジャニーズ事務所に最大の利益を与えたのはSMAPだろうが、ジャニー喜多川さんが今でも理想のアイドル像として思い描いているのは郷ひろみだろう」と述べている。 ジャニーは郷が事務所に在籍していた当時、六本木にあった合宿所の電話番号の最後の4ケタをわざわざ「5163 (郷ひろみ)」にしていた程だった。
    しかし、タレントのマネジメントで神経を使い過ぎ、「十二指腸潰瘍の末期」と診断されて1974年6月から3ヶ月間、赤坂の山王病院で入院生活を送っている間に、当時事務所で一番の稼ぎ頭であり、最も可愛がっていたその郷ひろみが、バーニングプロダクションに引き抜かれてしまった(注:移籍が正式に完了したのは翌1975年4月1日)。 ジャニーズJr.のメンバーやスタッフまでも引き連れたこの大きな移籍騒動でジャニーは相当なショックを受け、その後は趣味だった麻雀に埋没することが多くなり、森進一和田アキ子を六本木の合宿所に招いては、明け方まで麻雀をしていた。  なお、和田アキ子はジャニーのことを「ジャニ子」、メリー喜多川のことを「メイ子」という愛称で呼んでいる。
    この他、ジャニーにとっての最高傑作は「田原俊彦」、そしてジャニーの生涯で最大の発明は「光GENJI」だと評されることもある。

  • 所属タレントからの呼称は、「ジャニーさん」、または「社長」。 そして所属タレントは皆、ジャニーに対して“タメ口”である (「敬語は堅苦しいから」とジャニーから敬語禁止令が出されるため)。

  • かつてTOKIOの国分太一がジャニーに、「ジャニーさんが思う(事務所史上の)最強のグループって、どのグループだったの?」と尋ねた際、即答で「少年隊」と答えた。 その理由として、「踊りが完璧。歌も歌えて、自分たちで演出もできていた」と述べていたことを、国分が2019年9月4日放送のフジテレビ『TOKIOカケル 300回記念スペシャル』で明かした。

  • 姪(ジャニーの兄・真一の娘)が、福岡市内でピアノ講師をしている。

  • 指原莉乃主演の映画『薔薇色のブー子』(2014年、監督・脚本:福田雄一)にて、「やめちゃいなよYOU!」、「ジャニーさん」という台詞を、ユースケ・サンタマリアが喋っている。

特徴

  • ジャニー喜多川は「源平合戦」、「彰義隊」、「白虎隊」、「二本松少年隊」、「新選組」などの歴史ものが好きで、日本の芸能史上、アイドルのグループ名に「○○隊」、「○○組」というネーミングを最初に採用した人物。(白虎隊、少年隊、シブがき 〔“シブがき”の部分のみファンによる命名〕、桜隊、男闘呼組、少年新撰組など。 但し「○○組」というアイデアをジャニーに提案したのは中村繁之
    以降、多くのグループがこのネーミングを使用するようになった。
    (例:「筋肉少年少女隊 (筋肉少女帯の旧名)」、「いいとも青年隊」、「少女隊」、「おめで隊」、「うしろ髪ひかれ隊」、「渡り廊下走り隊」、「うしろゆびさされ組」、「あすか組」〔原作漫画は1985年8月連載開始〕、「桜っ子クラブさくら組」、「平成おんな組」、「維新組」、「モーニング娘。おとめ組」、「モーニング娘。さくら組」、「ほね組 from AKB48」、「新選組リアン」、「でんぱ組.inc」、「モーニング娘。天気組」など)

  • 自分にとって思い入れの深い人物やグループの名前、また、自身がプロデュースしながらも売れなかったり消滅してしまったグループの名前を、後に再び引用して改めて焼き直すことが多い。

    • 初代ジャニーズの中谷良のリードボーカル曲『裸の少年』(1966年。作詞:中谷良、作曲:三保敬太郎。ジャニーズのアルバム『ジャニーズとアメリカ旅行』に収録。 ただし実際に作詞したのは中谷ではなくジャニー喜多川)
                  ↓
      ジャニーズJr.のバラエティ番組のタイトル『裸の少年』(2001年4月7日 - 2009年9月26日、テレビ朝日)
      なお、楽曲『裸の少年』は、後にフォーリーブスの北公次もソロ曲としてカバー。(1969年。北のシングル『ひとりぼっちになった時』のB面、およびフォーリーブスの1stアルバム『ヒット!ヒット!ヒット! フォーリーブス・ゴールデン・ショー』、ハイ・ソサエティーの1stアルバム『世界へジャンプ! ハイソサエティ・サプライズ・プレゼント』に収録)
      更に、2012年〜2013年にかけて公演された3ヶ月ロングランミュージカル『ジャニーズ・ワールド』(通称:ジャニワ)でも、Hey! Say! JUMPの山田涼介が同曲をカバーしている。

    • あおい輝彦 → 葵テルヨシ (「葵」の字の由来は、葵が名古屋出身ということで「葵の御紋」からの引用)

    • ミュージカル・アカデミー(旧名:ミュージカル・アカデミー合唱団。1960年代〜1970年代に活動していた男性12名(結成時の人数)のコーラスグループ。 1965年のミュージカル『焔のカーブ』ではジャニーズとも共演した) → Musical Academy

        
        画像はコーラスグループの「ミュージカル・アカデミー」

    • ジャニー喜多川 → 公次 (自らの名前の「キタ」の部分を引用)

    • 北公 → 成田昭 (「」の文字を引用)

    • Four Tops(1960年代半ばに全米1位のヒット曲を出していたアメリカのR&Bコーラスグループ) → フォーリーブス → Four Tops

    • フォーリーブス・ミュージカル『少年たち』シリーズ(1969年 - 1976年) → ミュージカル『少年たち 〜格子無き牢獄〜』(2010年 - )

    • 『夏の嵐 〜第1章 光 / 第2章 影〜』(1970年8月1日に発売されたフォーリーブスのアルバム)、および『少年たちパートU 〜 青春の光と影』(1976年3月〜4月に行われたフォーリーブスの10周年記念ミュージカル) → 『PRIVATE LIFE 〜Light & Shadow〜』(1987年4月28日に発売された少年隊のアルバム) → ライト・イン・シャドウGENJIの当初のグループ名) → B.I.Shadow

    • フォーリーブスの1978年5月1日発売のライブアルバム、および同年7月26日〜8月31日に行われたフォーリーブス解散コンサートツアーのタイトル『LOVE FOREVER』 → 1983年8月4日公開の田原俊彦のドキュメント映画『TOSHI in TAKARAZUKA Love Forever

    • フォーリーブスの1976年のシングル『踊り子』 → 男闘呼組のバックダンスグループ「踊り子

    • 名前のイニシャルがAからZまで全て揃った26人のメンバーを集め、ミュージカルを上演できるようなグループを作りたいという「ジューク・ボックス」の当初の構想 (アルファベット「A to Z」へのこだわり) → A.B.C-Z → Sexy Zoneの当初の構想ユニット「A.B.C-xyZ」 → Sexy Zoneの「xy」の赤字化 (「アルファベットの連続」であるという意味を強調するため)

    • JOHNNYS' ジュニア・スペシャル → Jr.specialFour Topsの旧名) → Spe千 → Jr.SP (旧名:ジャニーズJr.SP

    • ジャニーズ・ジュニア・エース → JR.A (ジェイアールエー)
        「エース」のアルファベット表記は、「Ace」ではなく「A」一文字だった。 また、1970年代前半のジャニーズJr.は「ジャニーズJR.」とも表記されていた。

    • ザ・ニュース → NEWSSAY・Sのバックバンド) → 2003年にデビューしたNEWS

    • リトル・ギャング → Little Gangs関西ジャニーズJr.内のダンスユニット) → Lil かんさい (リトルかんさい)

    • クエスチョン・マーク・アンド・ザ・ミステリアンズ(1966年に全米1位のヒット曲を出したアメリカのガレージ・ロックバンド)、および『クエスチョンズ67/68』 (シカゴの1969年のシングル。ハイ・ソサエティーが1971年のアルバムでカバー) → クエッション → 村田勝美&ハイクエッチョンズ → クエスチョンズ (「嵐」の当初のグループ候補名) → Question?

    • 未都由 → 横山裕 (ジャニーが人を呼ぶ際の「You」のネーミング)
    • 未都由 (未来・東京都・自由) → 東京 → TOKIO → TOKYOTOKYO浜松町 → F.M.Tokyo
    • 未都由 (未来・東京都・自由) → 東京男組 → 京男

    • 男女の合同
    • ジャPAニーズ → 滝沢秀明主演の2006年の舞台『滝沢演舞城』の第一幕・第一部のタイトル 「ジャ(PA)ニーズ(Hi)Story 日本昔ばな史」 → ジャPAニーズHi!

    • Aチーム → Aぇ少年 → Aぇ!group
    • Bチーム → 微笑年 → B-少年 (Sexy Zoneに当初予定されていたグループ名) →  少年 (旧名:Tokyo Boyz → 東京B少年 → Sexy美少年 → 美 少年)

    • Hey! Say!』&『JUMP ’84』 → Hey! Say! JUMP
        Hey! Say!』は、1989年に発売された光GENJIのアルバム。(この「Hey! Say!」というネーミングは、ジャニーズ事務所が行ったイベントでも何度か使用されている)
        JUMP ’84』は、1984年の春休み期間中に行われたジャニーズ事務所企画のコンサートイベント。
        なお、Hey! Say! JUMPの“JUMP”は、「Johnny's Ultra Music Power」の略だが、
        JUMP ’84』の方は、「JOHNNYS ULTRA MUSIC PANIC」の略で、田原俊彦近藤真彦シブがき隊THE GOOD-BYEの順で、会場を変えながらリレー形式で開催されたコンサートだった。

    • 少年忍者 → ちびっこ忍者! → 少年忍者 → 7忍者 → 5忍者

    • ジャニーズ・シニア → ジャニーズSr.

    • 新元号を引用したユニット名
    • 光GENJIの2ndアルバム『Hi!』 → Hi! See Me IN KYOTO → ジャPAニーズHi! → HiHi Jets

    • KANZAI BOYA → Jr.Boya関西BOYS (KANSAI BOYS)

    • カミセントニセン (それぞれV6の内部ユニットの略称) → Spe千

    • 大看板を意識して絡めたユニット名
    • Sexy Boy → Sexy Boyz

    • なにわ皇子 → なにわ男子


  • どことなく顔立ちや路線の系統が似ている人物が、新旧のジャニーズ(一部ジャニーズ以外のアイドルにも)の中で繰り返されているようにも窺える。(本人たちが先輩に憧れて真似る場合も一部含む)

    • 長沢純 (ジャニーズではない) → 真家ひろみ
    • あおい輝彦 → 二重瞼に整形後の赤木さとし
    • 中谷良 → 猶場輝彦
    • 北公次 → 岡のりお
    • デビュー直後の北公次 → 山本淳一
    • 北公次 → 薬丸裕英 → 山本淳一 → 千賀健永
    • 北公次 → 橋海人
    • 江木俊夫 → 国分太一
    • 青山孝 → SMAP結成直後の中居正広、原知宏
    • 初期の永田英二 → 大倉忠義
    • 小谷純 → 中居正広
    • 吉本あき弘 → 原知宏
    • 岡のりお → 高橋一也、成田昭次
    • 畠山昌久 → 宇治正高、倉田順一 → 山口達也
    • 郷ひろみ → 志賀泰伸
    • 森谷泰章 → 森内貴寛 (後のTaka)
    • 曽我泰久 → 香取慎吾
    • 松原秀樹 → 国分太一
    • 岡本祐幸 → 山下智久
    • 城みちる (ジャニーズではない) → 相葉雅紀
    • 若き日の井上純一 → 二宮和也
    • 1977年時の豊川誕 → 内博貴
    • 未都由 → 初期の屋良朝幸
    • 川ア麻世 → 八乙女光
    • 田原俊彦 → 錦織一清
    • 近藤真彦 → 植草克秀 → 中村繁之 → 諸星和己 → 中居正広
    • 野村義男 → 宮田俊哉
    • 叶屋博基 → 正木慎也
    • 竹本孝之 (ジャニーズではない) → 手越祐也
    • 本田恭章 (ジャニーズではない) → 岡本健一
    • 錦織一清 → 中島裕翔
    • 東山紀之 → 堂本光一
    • 植草克秀 → 高木延秀
    • 平本淳也 → 萩谷慧悟
    • 宇治正高 → 横尾渉
    • Jr.時代の内海光司と石丸志門
    • 内海光司 → 初期の古川栄司
    • 大沢樹生 → 松岡昌宏、玉森裕太
    • 三好圭一 → 志賀泰伸
    • 柳沢超 → 佐藤アツヒロ → 佐藤敬 → 高橋直気 → 佐藤勝利
    • 守屋二郎 → 二宮和也
    • 山本陽一 (ジャニーズではない) → 野中和久
    • 成田昭次 → 原知宏
    • 高橋一也 → 田中聖、橋海人
    • 岡本健一 → 初期の木村拓哉
    • 田代秀高 → 田中純弥 → 嶋ア斗亜
    • 初期の赤坂晃 → 初期の松本潤
    • 中居正広 → Jr.時代の堂本剛、渋谷すばる
    • 草g剛と岡田賢一郎
    • 双子の米脇明彦・伸彦兄弟 → 岩ア大昇
    • 伊東正美 → 浜田一男
    • 初期の長瀬智也 → 亀井拓 → 中山優馬
    • 堂本光一 → 山田涼介、橋本良亮、藤井流星
    • 佐野瑞樹 → 初期の岡田准一
    • 森田剛 → 屋良朝幸、Jr.時代の赤西仁
    • 三宅健 → 伊藤達哉
    • 原知宏 → 神宮寺勇太
    • 中浜慶幸 (後のRuiza) → 赤西仁
    • 佐々木大地 → 山下智久
    • 風間俊介 → 桐山照史
    • 大倉士門 → 橋海人 → 藤井直樹
    • 京本大我 → 道枝駿佑
    • 佐藤勝利、中島健人 → 平野紫耀、永瀬廉 → 浮所飛貴

ジャニー弁

  • ジャニー喜多川は、所属タレントを呼ぶ時に名前では呼ばず、誰に対しても「YOU」と呼んでいた。(ただし横山裕のことだけは「ヨコ」と呼んでいた)
    また、「今日、日曜日だしYOUプール来ちゃいなよ」などと、ジャニーズJr.の面々を唐突に電話で呼び出すこともあった。
    更に、「YOU、○○しちゃいなよ」という一声でグループが結成されたりコンサートが決定したりと、軽いノリながら重要な決定を下すことも多い。
    この「YOU」、「○○しちゃいなよ」といったいわゆる“ジャニー弁”は、所属タレントのみならず多くの芸能人によってしばしばネタにされている。

住居侵入被害

  • 2011年8月17日午前9時45分頃、渋谷区渋谷の自宅マンションに男が侵入し、ジャニーを閉め出して篭城するという前代未聞の事件が起こる。 報道では、帰宅したジャニーが自分の部屋のある階のオートロックを解除した際、近くに潜んでいた男も一緒に中に入り、素早く無施錠だったジャニーの玄関扉を開けて中に入り、内側から鍵をかけたとされている。 そしてジャニーはフロントを通じて110番に連絡し、約40分後、駆け付けた警視庁渋谷署員が室内に突入。 男は取り押さえられ、住居侵入容疑で現行犯逮捕された。  ジャニーは34階建てのタワーマンションの最上階(リーマンショック前は時価14億の部屋)に住んでいたが、この事件による怪我や室内の物品の破損・盗難は無かった。
    侵入した男の名は、プリペイドカードや各種金券類を取り扱う、創業50年の老舗会社「株式会社サンデックス」の代表取締役社長・鵜瀞敏男(うのとろ としお、世田谷区尾山台、当時52歳)。 鵜瀞は、「知り合いのジャニー喜多川さんの家に入っただけ」と供述。 一方のジャニーは、「男との面識は無い」、「同じマンションの住人かと思った」と話した。  しかし、ジャニーの住む高級タワー億ションのセキュリティは非常にしっかりしており、24時間有人管理システムや、エレベーターを降りてもガラス扉でガードされているダブルオートロックシステムを導入。 つまり同じマンションの住人でさえ、別の階には行けない程の頑丈なセキュリティであった。 しかもジャニーの住む34階に住戸は2戸しかなく、もう一つの部屋もジャニーズ事務所の所有物件。 こうした状況の中で「見知らぬ男に自宅に侵入された」という説明には不自然な点が多く、実際にはジャニーは鵜瀞と面識があったのではないかと見られている。 芸能ライター曰く、ジャニーは近い関係者には「犯人と面識があった」と認めているとのこと。
    鵜瀞の会社の取引先企業リストにはジャニーズ事務所の名前もあるため、利権をめぐっての金銭トラブルの可能性が挙げられたが、鵜瀞が明治大学工学部を卒業後に母親から継いだ会社の月商は3億円以上、 内部留保も3億円を超えている。 更には世田谷区尾山台に164坪の広い土地を所有。評価額は2億8,000万円。 鵜瀞はこの土地を外車ディーラー12社に駐車場として貸している。 また、国立市にも300坪、2億3,000万円相当の山林・畑などを持っているほどのリッチな資産家であるため、ジャニーとの金銭トラブルというのは考えにくく、しかも事件のあった日は鵜瀞の52歳の誕生日だったため、何かしらのプライベートな付き合いでのもつれが原因だとも見られている。  ネット上でも、「古くに肉体関係のあったゲイ友達で、痴情によるもつれ」、 「ジャニーが数十年に渡って収集してきた所属タレントたちの児童ポルノコレクションを見るため」、 「少年たちへの性虐待の証拠を掴もうとした正義の侵入」などの説が浮上した。  なお、ジャニーはこの事件で世間に住所を知られてしまったため、翌9月の上旬に転居した。

交通事故

  • 2012年10月16日午後3時頃、ジャニーが仕事の打ち合わせに向かうために一人で車を運転していた際に、追突事故を起こす。  事故は港区北青山の見通しのいい直線道路で起き、40代の男性が運転する軽自動車に衝突。 ジャニーに怪我はなかったが、追突された男性は軽傷を負った。  ジャニーは普段、運転手付きの車やタクシーを利用しているが、時々自分でも運転していた。
    警察の調べに対してジャニーは、「前の車が信号で止まったのに気付かず、ぶつかってしまった」と説明。  警視庁赤坂署はジャニーを自動車運転過失傷害容疑で書類送検した。  この事故についてジャニーは事務所を通じ、「今後は車の運転は行いません」とコメントした。  以後、ジャニーの専属運転手は元・忍者遠藤直人が担当。

ホームエレベーター事件

  • 2014年、ジャニーが自宅に新しく設置したホームエレベーターに乗った際、ドアが開かなくなり、閉じ込められてしまうという事態が発生。 携帯電話を持っていない状態で、非常ベルも未設置だったため、閉じ込められていた時間は実に4日間にも及んだ。
    老体にもかかわらず、4日間飲まず食わずの状態が続いて意識朦朧とする中、たまたま事前に洗濯機を注文し、家の鍵も預けておいた電気屋が、洗濯機を届けるためにジャニー宅の中に入って来てくれたため、ジャニーがエレベーター内から「助けてくれー!」と大声で叫び、何とか無事に救出されて一命を取り留めた。 一歩遅ければ、ジャニーズ事務所の歴史、そして日本の芸能史も変わってしまう一大事であった。  エレベーター会社からの正式な使用許可が下りる前に使い始めてしまったのが故障の原因だった。

性的虐待について

  • ジャニーが同性愛者(少年愛、ペドフィリア)であり、事務所に所属する男性タレントに対して性的虐待(同性愛行為の強要)を行っているとの話は、1960年代から散発的に繰り返し報道されてきた。

  • まず、駐留米軍の「軍事援助顧問団」に勤務していた頃(1958年〜1966年)から、外交官ナンバーの車で新宿・花園神社の界隈に繰り出し、「ケニー」、「L」、「牛若丸」といったゲイバーで遊んでいたこと、更に新宿駅南口で網を張り、田舎から出てきた少年たちに声をかけては、常宿の「相模屋」(1泊600円のベッドハウス)に連れ込んでいたことを、当時のゲイ仲間・原吾一が、著書『二丁目のジャニーズ』シリーズで明かしている。

  • ジャニー喜多川が最初に手がけたタレントは「ジャニーズ」の4名(真家ひろみ、飯野おさみあおい輝彦、中谷良)で、当初は池袋の芸能学校「新芸能学院」に所属させていたが、学院内にてジャニーが15人の男子生徒たちに性的虐待行為をしていたことが発覚。  オーナーの名和太郎(本名:高橋幸吉。2000年6月7日に急性心不全で逝去。81歳没)はジャニーを1964年6月28日付で解雇した。  しかしジャニーが、ジャニーズの4人も一緒に引き連れて出て行ってしまったためにトラブルとなり、裁判へと発展した。  裁判は長期化し、1964年から実に3年以上に渡って行われた。ジャニーズの4人も実際に証言台に立っており、その証言記録は『女性自身』(1967年9月25日号)、『ジャニーズの逆襲』(データハウス刊)、『ジャニーズスキャンダル調書』(鹿砦社刊)にて再現されている。 『週刊サンケイ』(1965年3月29日号)でも、「ジャニーズ騒動」として5ページの記事が組まれた。  なお、『ジャニーズスキャンダル調書』では「同性愛」という表現自体を否定しており、ホモセクハラである以上、「性的虐待」、善意に表現しても「少年愛」であるとしている。

  • 『週刊現代』(1981年4月30日号、講談社)にて、「『たのきんトリオ』で大当たり アイドル育成で評判の喜多川姉弟の異能」と題し、ジャーナリストの元木昌彦がジャニーの性趣向問題について言及。
      (直後、メリー喜多川から編集部に「今後、講談社には一切うちのタレントを出さない」と猛クレームが入り、元木は処分として『週刊現代』から『婦人倶楽部』の部署へと異動させられた。 この件については、『週刊文春』(1981年5月、文藝春秋)でも、「大講談社を震え上がらせたメリー喜多川の“たのきん”操縦術」と題して報じられた)

  • 元所属タレントの告発も相次いだ。元フォーリーブス北公次は『光GENJIへ』(データハウス、1988年12月)を、 元ジューク・ボックスの小谷純とやなせかおるは『さらば ! ! 光GENJIへ』(データハウス、1989年9月)を、 元ジャニーズの中谷良は『ジャニーズの逆襲』(データハウス、1989年10月)を、 元ジャニーズJr.平本淳也は『ジャニーズのすべて 〜 少年愛の館』(鹿砦社、1996年4月)、 山崎正人は『SMAPへ』(鹿砦社、2005年3月)をそれぞれ上梓し、性的虐待の実態を暴露した。 ジャニーズの出身者以外からも、ミュージシャンのジーザス花園が、2009年発表の自作曲『ジャニー&メリー』で糾弾している。

  • 1988年〜1989年にかけ、月刊誌『噂の眞相』もこの問題を数回取り上げた。 しかしジャニーズ側は、「『噂の眞相』という雑誌はこの世に存在しないもの」という姿勢を貫いていたため、全く相手にされることは無かった。

  • 1999年〜2000年にかけては、『週刊文春』がジャニーズ事務所に対する糾弾を8回に渡ってキャンペーンとしてシリーズ掲載。 ジャニーが所属タレントに対してセクハラ・児童虐待を行い、事務所内では未成年所属タレントの喫煙や飲酒が日常的に黙認されていると報道した。 出版元である文藝春秋は、他の大手出版社と違ってジャニーズ事務所との癒着や影響力が皆無に等しかったために出来たことだった。
    大手メディアがこの性的虐待問題を取り上げたのは1960年代以来初めてのことで、その波紋は大きく、自民党衆議院議員・阪上善秀(後の宝塚市長)も、2000年4月13日にこの問題を衆議院で取り上げた [6]。  ジャニー側は名誉毀損であるとして文春側を訴え、1億2,000万円の損害賠償と謝罪広告を求める民事訴訟を起こした。


裁判

  • 2002年3月27日、東京地裁の一審判決では、「高度の信用性を認めがたい。 証人の証言はたやすく信用できない点を残している」としてジャニー側が勝訴し、東京地裁は文春側に880万円の損害賠償を命じた (井上哲男裁判長)。 文春側はこれを不服として東京高裁に控訴。

  • 2003年7月15日の二審判決では、ジャニー側の性的虐待行為を認定 (矢崎秀一裁判長)。 このため、性的虐待部分の勝訴は取り消され、損害賠償額は120万円に減額された。 ジャニー側は損害賠償額を不服として最高裁に上告したが、2004年2月24日に棄却され (藤田宙靖裁判長)、120万円の損害賠償と性的虐待行為認定が確定した。

  • しかし各芸能マスコミは、一審の880万円から120万円に減額された事実だけをベタ記事で書いて済ませ、「ホモセクハラが認められた」という肝心の理由は書かなかった。
    この問題について、オカルト批判団体「Japan Skeptics (ジャパン・スケプティクス)」の機関誌『NEWSLETTER 53号』にて、当時同会の副会長だった草野直樹が言及・批判。 「マスコミの誤りというのは、『間違ったことを報じる』だけでなく、『必要なことを報じない』ことも含まれる。 そして後者の多くは、いくつかの『タブー』に縛られていることが原因になっている。 報道におけるタブーのベールを抜いた報道には、オカルト・疑似科学の類と同様に騙されないようにしよう」と訴えた。
    芸能評論家の肥留間正明も、「芸能界でホモセクハラが裁判になったのは異例。 真実と認められたのも初めてで、これは社会的な事件」と語っている。
    また、ニューヨーク・タイムズや、イギリスの新聞・オブザーバーなどの海外メディアも大々的に取り上げ、この問題をタブー視するなどして真実を報道しない卑怯で腰抜けな日本のマスメディアの姿勢、体質を批判した。

  • 以後もジャニーズ事務所と文藝春秋は対立。 2006年に『武士の一分』が映画化された際、ジャニーズは文春文庫で発売されている藤沢周平の原作本の帯に、主演の木村拓哉の写真の使用を一切許可しない、という対抗措置を取っている。 また、木村が工藤静香と結婚した際にも、会見への週刊文春の参加を禁止した。 そのため、文春側は巻頭グラビアで白紙ページに木村とインタビュアーの輪郭のみを描き、ジャニーズによるメディア統制であると非難した。

  • ジャニーの性癖について姉のメリーは、「弟は病気なんだからしょうがないでしょ!」と言ってずっと放任していた。

  • 2019年7月9日にジャニーが逝去した際、テレビや雑誌など、日本の主要メディアではジャニーを賛美する美辞麗句のみが並べられた。
        
    他者の訃報であれば、「光と影」、「成功の裏で…」などと、故人の両面の部分、功罪が報じられるが、普段、「権力に立ち向かい真実を伝えるのがメディアでありジャーナリズムである」などと言ってるマスコミは、ジャニーの性的虐待問題については一切触れることはなかった。
    一方、イギリスの放送局「BBC」、イギリスの通信社「ロイター通信」、アメリカの音楽メディア「ビルボード」、アメリカの芸能系ネットメディア「ハリウッド・リポーター」、日本拠点とする英字ネットメディア「JAPAN TODAY」など、海外メディアでは是々非々で性的虐待問題にもしっかりと言及。 BBCのニュース記事では、日本の主要メディアでは闇の部分が一切報道されないことに対し、
    「ジャニーズ事務所は業界であまりに圧倒的な存在だったため、ジャニー喜多川氏を批判することはほとんど不可能だった。 強大なジャニーズ事務所を脅かそうと挑む人は、日本の主要メディアには皆無だった」 と論じた。[1]
    酷いことに、日本の主要メディアはBBCによる記事を報じる時でさえも、ジャニーに対する賛辞の部分だけを引用。 たった一社の企業に飼い馴らされた、日本のメディアの弱腰で不公平な姿勢や、性的虐待問題について述べている部分は全てカットされた。


出演

テレビ

  • 日曜ビッグスペシャル 「LOVE FOREVER 完全独占中継 さようなら フォーリーブス」
      (1978年8月27日 日曜20:00〜21:48、テレビ東京)
  • JOHNNYS’World : Top of the J Pops (2013年1月27日、NHKワールドTV)
      ジャニー喜多川を特集した50分の特番で全編英語放送。 ジャニーは住吉美紀アナウンサーとの対談にて出演したが、ジャニーの顔は画面には映されず、声も吹き替えにされた。  唯一、ジャニーの帽子とサングラス姿の写真だけは少し映された。
  • ニュースウォッチ9 「ジャニーズ若手華麗な舞台 なぜ戦争の場面が?」 (2018年1月26日、NHK総合)
      顔は出さず、音声も別人に差し替えられたが、ジャニーのインタビューが放送された。

映画

  • TOSHI in TAKARAZUKA Love Forever (1983年8月4日、東宝)
      田原俊彦のコンサートリハーサルのシーンで、姉のメリー喜多川と共に映り込んでいる。

ラジオ

  • 蜷川幸雄のクロスオーバートーク (2015年1月1日、NHKラジオ第1放送)
      ジャニーはこの日、自身の思い入れのある曲として、 The Association『Never My Love』、 The Monkees『Monkeesのテーマ』、 Perry Como『Papa Loves Mambo』、 笠置シヅ子『東京ブギウギ』、 映画「ウエスト・サイド物語」より『COOL』、 あおい輝彦『時計をとめて』、 Doris Day『Sentimental Journey』の7曲を紹介した。


受賞歴

  • 1970年3月 - GSアイドル雑誌『ティーンルック』の最終号(1970年3月10日号、主婦と生活社)での誌面企画「喜んでいただきま賞」にて、「取材協力賞」を受賞。 ジャニー喜多川の写真も掲載された。

  • 2003年 - 菊田一夫演劇賞「特別賞」受賞
       (ただし授賞式には堂本光一を代理人として行かせた)

  • 2011年9月 - ギネス・ワールド・レコーズに認定
      「最も多くのコンサートをプロデュースした人物 (2000年 〜 2010年に8,419回)」と、「最も多くのナンバーワン・シングルをプロデュースした人物 (1974年〜2010年に232曲)」として認定され、 帽子とサングラスで変装した顔写真が、2012年版のギネスブックに掲載された。
          
      2011年9月23日放送の日本テレビ『ZIP!』では、「80年の人生をショー・ビジネスの仕事に打ち込んできて、ギネス・ワールド・レコーズによって認められたことに感動しています。 この年月の間に芸能界の創造性は格段の進歩を遂げました。 ギネス・ワールド・レコーズ・ブックがある限り、新しい記録に挑戦し続けようと思います」というジャニーのコメントが、キャスターによって読み上げられた。
      なお、「プロデュースした」と言うと、ジャニー自身が舞台演出や作詞、作曲、編曲などを行ったように思われがちだが、あくまで「興行や製作の出資者・責任者」という意味であり、「数多くのコンサートを行ったタレントたち、およびナンバーワンを獲ったタレントたちを発掘し、デビューさせた人。 また、それらのタレントの所属事務所の社長であり、興行や製作の出資者、責任者」という表現が正しい。

  • 2012年 - 再びギネス・ワールド・レコーズに認定
      「最も多くのチャート1位アーティストを生み出したプロデューサー」として認定され、2013年版のギネスブックに掲載された。


参考文献

  • 高野山米国別院五十年史 1912−1962
      (風早勝一 著、川島宏之 編、1974年、高野山米国別院刊)
       「喜多川諦道師の時代」の章 (全10ページ)
  • ジャニーズ・ファミリー 〜裸になった少年たち〜
       (和泉ヒロシ 著 〔後の小菅宏〕、1976年6月、オリオン出版)
  • フォーリーブスの伝説 (フォーリーブス 著、1976年8月、泰流社)
       ジャニー喜多川による文章が掲載。
  • 週刊明星 (1978年6月18日号、集英社)
      インタビュー記事 「フォーリーブス 秘められた“喝采”と“失意”の青春12年間 ! ! アイドル・メーカー、ジャニー喜多川氏が明かす偶像の裏表」
  • Music research (1981年3月2日号、リサーチ社) ジャニー喜多川のインタビュー掲載
  • 週刊現代 (1981年4月30日号、講談社)
      「『たのきんトリオ』で大当たり アイドル育成で評判の喜多川姉弟の異能」 (メリー喜多川のインタビューも掲載。文:元木昌彦)
  • キミがスポットライトを浴びるためのアイドル読本
       (長倉孝 著、1986年4月、日本ビジネスライフ社)
  • 平凡 (1987年11月号、マガジンハウス) ジャニー喜多川のロングインタビュー
  • 光GENJIへ 〜 元フォーリーブス北公次の禁断の半生記 (北公次 著、1988年11月、データハウス)
    • 光GENJIへ・再び (北公次 著、1989年2月、データハウス)
    • 光GENJIへ3 〜 みんなで考えようジャニーズ問題 (北公次 著、1989年4月、データハウス)
    • 光GENJIへ 最後の警告 (北公次 著、1989年5月、データハウス)
    • さらば ! ! 光GENJIへ (北公次 著、1989年9月、データハウス)
    • 光GENJIファンから北公次へ (北公次 著、1989年12月、データハウス)
  • 8人目の光GENJI (SHADOW 著、1989年6月、データハウス)
    • 新・光GENJI 〜 ハロー・アイ・ラブ・ユー (SHADOW 著、1989年10月、データハウス)
    • がんばれ ! ! 光GENJI 〜 新・光GENJIへの手紙 (SHADOW 著、1990年2月、データハウス)
    • 新・光GENJI解散! 〜 7人の新たなる旅立ち (SHADOW 著、1990年5月30日、データハウス)
  • 牧歌メロン 2号 (1989年8月、南原企画、バロル舎)
      北公次 & 新・光GENJIインタビュー 「邪淫巣 (ジャニーズ) 大奥(秘)物語 (ストーリー)
  • ジャニーズの逆襲 (中谷良 著、1989年10月、データハウス)
  • ジャニーさん 〜 光GENJIへ総集編 (4コママンガ作品、鶴田康文 著、1990年3月、データハウス)
  • SPA! (1990年7月4日号、扶桑社) ジャニー喜多川の独占インタビュー
  • Myojo (1992年11月号、集英社) ジャニー喜多川のインタビュー掲載
  • ハイ!どうぞ 〜 ジャニーズ・タクシー奮走記 (立花正太郎 〔真家ひろみ〕 著、1993年5月、マガジンハウス)
  • Views (1995年8月号、講談社)
      「ジャニーズ事務所のアイドル資本主義」(文:宇井洋)
  • 二丁目のジャニーズ (原吾一 著、1995年11月、鹿砦社)
    • 二丁目のジャニーズ 死闘篇 (原吾一 著、1996年4月、鹿砦社)
    • 二丁目のジャニーズ 最終戦争篇 (原吾一 著、1996年7月、鹿砦社)
  • BRUTUS (1996年2月号、マガジンハウス)
  • ジャニーズのすべて 〜 少年愛の館 (平本淳也 著、1996年4月、鹿砦社)
    • ジャニーズのすべて (2) 〜 反乱の足跡 (平本淳也 著、1996年6号、鹿砦社)
    • ジャニーズのすべて (3) 〜 終わりなき宴 (平本淳也 著、1996年9月、鹿砦社)
  • ジャニーズ輪廻論 (矢ア葉子 著、1996年6月、太田出版)
  • 月刊現代 (1997年1月号、講談社)
      「産業としての『ジャニーズ』を科学する」(文:弓狩匡純)
  • 芸能界スキャンダル読本 (1997年2月、宝島社・別冊宝島299)
       浅野恭平 寄稿 「ジャニーズ事務所の憂鬱」
  • AERA (1997年3月24日号、朝日新聞社出版本部)
      ジャニー喜多川のインタビュー掲載。 このインタビュー現場には、中居正広も特別に同行させて貰っていた。
  • 朝日新聞 (1997年3月24日付、2011年10月22日付、2017年1月24日付) インタビュー
  • ジャニー喜多川さんを知ってますか 〜 初めて語る伝説の実像
      江木俊夫・小菅宏〔こすが ひろし。旧名:和泉ヒロシ〕著、1997年7月、KKベストセラーズ)
  • ジャニーズの憂鬱 アイドル帝国の危機 (1998年5月、鹿砦社)
  • ジャニーズ帝国 スターたちの反乱 (原吾一 著、1998年7月、コスミックインターナショナル)
  • ジャニーズ・プロファイリング 〜 犯罪心理捜査 (伊藤彩子 著、1999年6月、鹿砦社)
  • ボクの夢はキミたちが描く夢 〜 ジャニー喜多川が語るジャニーズ塾の子供たち
       (あおきひろし 著、1999年8月、メタモル出版)
  • ジャニーズお笑い進化論 (西条昇 著、1999年12月、大和書房)
  • レプリーク (2002年1月号、HANKYU BOOKS) ジャニー喜多川のロングインタビュー
  • 噂の真相 (2002年2月号、噂の眞相) 裁判記事
  • シアターガイド (2002年7月号、モーニングデスク) ジャニー喜多川のロングインタビュー
  • 不滅のアイドル王国 (天馬飛呂志 著、2002年12月、ブックマン社)
  • 芸能界スキャンダル大戦争 (2004年5月、鹿砦社)
       「美少年アイドル帝国・ジャニーズ 虚飾の裏側」
  • SMAPへ 〜 そして、すべてのジャニーズタレントへ (木山将吾 〔山崎正人〕 著、2005年3月、鹿砦社)
  • シアターガイド (2006年5月号、モーニングデスク)
       西条昇による特別寄稿 「ジャニー喜多川の仕事」
  • 残響 〜 闘魂!俺が生きた芸能界の半世紀! (上条英男 著、2007年2月、シモンズ)
  • 芸能をビッグビジネスに変えた男「ジャニー喜多川」の戦略と戦術
       (小菅宏 著、2007年3月、講談社)
  • ワシントンハイツ 〜GHQが東京に刻んだ戦後〜 第14章 「アイドル誕生」 (秋尾沙戸子 著、2009年7月、新潮社)
  • 週刊文春 (2010年12月30日&2011年1月6日合併号、2011年1月13日号、文藝春秋)
       連載「ジャニー喜多川社長のルーツを追う!」
  • 日刊スポーツ (2011年9月25日付) インタビュー
  • 文藝春秋 (2012年7月号、文藝春秋)
       「『ジャニーズ帝国』 原っぱからの五十年史」(文:二田一比古)
  • アイドル帝国ジャニーズ 50年の光芒 〜 夢を食う人・ジャニー喜多川の流儀
       (小菅宏 著、2012年6月、宝島社) - 新書
  • ジャニ研! 〜 ジャニーズ文化論
       (大谷能生、速水健朗、矢野利裕 著、2012年12月、原書房)
  • ジャニーさんに愛される息子に育てる法 〜 アイドルの掟 @
       (ジャニーズウォッチャー45年・小菅宏 著、2013年11月、竹書房)
  • ジャニーズ魔法の泉 〜 アイドルの掟 A
       (ジャニーズウォッチャー45年・小菅宏 著、2013年12月、竹書房)
  • FLASH (2014年2月4日号、光文社)
       「日本のテレビを牛耳る怪物 ジャニーズ帝国 一人勝ちの研究」
  • 芸能人はなぜ干されるのか? 〜芸能界独占禁止法違反〜 (星野陽平 著、2014年5月、鹿砦社)
       第5章 「ジャニー喜多川の少年所有欲求」
  • ジャニーの伝言 〜 嵐、SMAP、キスマイたちを育てたジャニーズ事務所社長の夢と言葉
       (小菅宏 著、2016年2月、サイゾー)
  • ジャニーズと日本 (矢野利裕 著、2016年12月、講談社現代新書)
  • ジャニーズの正体 エンターテインメントの戦後史 (太田省一 著、2016年12月、双葉社)
  • テレビとジャニーズ (太田省一 著、2018年2月、blueprint/垣内出版)
  • 異能の男 ジャニー喜多川 〜 悲しき楽園の果て (小菅宏 著、2019年3月、徳間書店)
  • ジャニーズは努力が9割 (霜田明寛 著、2019年8月1日、新潮社)


脚注

  1. ^ 『ジャニーズ・ファミリー 〜裸になった少年たち〜』(和泉ヒロシ〔後の小菅宏〕著、1976年3月、オリオン出版)や、 『芸能をビッグビジネスに変えた男「ジャニー喜多川」の戦略と戦術』(小菅宏 著、2007年3月、講談社)、 『ジャニーさんに愛される息子に育てる法 〜 アイドルの掟 @』(小菅宏 著、2013年11月、竹書房)などでは、この劇場の名前を「アーニー・パイル劇場」としているが、これは誤り。 「アーニー・パイル劇場」とは、1945年から1955年まで東京宝塚劇場がGHQに接収されていた際の名称、もしくは、アメリカ軍統治時代の那覇の国際通りに存在した映画館「アーニーパイル国際劇場」であり、ロサンゼルスにはこのような名称の劇場は存在していない。
    誤りが起きた原因は、小菅氏がジャニー喜多川から聴き取りをした際に、「宝塚のアーニー・パイル劇場のような所」という説明を、そのままロスの劇場の名前が「アーニー・パイル劇場」だと思ってしまったため。 なおアーニー・パイルとは、第二次世界大戦末期の沖縄戦で命を落とした従軍記者の名前。

  2. ^ 『ジャニーズ・ファミリー 〜裸になった少年たち〜』(和泉ヒロシ〔後の小菅宏〕著、1976年3月、オリオン出版)や、 『芸能をビッグビジネスに変えた男「ジャニー喜多川」の戦略と戦術』(小菅宏 著、2007年3月、講談社)などでは、「音楽監督」ではなく「ミュージックメーカー」という名称で記述されている。

  3. ^ ディプロマミルとされる方の「ロサンゼルス市立大学 (City University Los Angeles)」とは異なる。

  4. ^ 『ジャニーズ・ファミリー 〜裸になった少年たち〜』(和泉ヒロシ〔後の小菅宏〕著、1976年3月、オリオン出版)では、アメリカの情報局の名をCIAではなく「CID」と誤植されている。 CIDは、アメリカ陸軍犯罪捜査司令部(The United States Army Criminal Investigation Division Command。通称:CID、USACIDC)のことであり、情報機関ではない。

  5. ^ 第2次世界大戦後、上智大学はGHQ/SCAPにより「GHQの兵士とその子弟の高等教育機関」として指定され、国際部夜間部(後に比較文化学部を経て国際教養学部に)が設置された。
    1952年にGHQによる日本占領が終わった後も、米軍やアメリカ大使館の関係者およびその子弟の入学が多かった。 なお、同大学は1957年まで男子のみ入学が許可され、女子は入学できなかった。

  6. ^ 第147回国会青少年問題に関する特別委員会第5号
     「ジャニー喜多川のセクハラ・児童虐待疑惑についての阪上善秀の国会質疑」


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出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より改訂
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