光GENJI / 光GENJI SUPER 5
光GENJI (ひかるゲンジ) は、かつてジャニーズ事務所に所属した男性アイドルグループ。
略称:GEN(語尾が上がる発音)、光G、HG、ヒカゲン。
グループ名は『源氏物語』の主人公・光源氏に由来する。
1987年5月に、「光」と「GENJI」の2つのグループが合体して結成。
メンバーの脱退を機に1994年9月1日に「光GENJI SUPER 5」に改名後、1995年9月3日に解散。
ローラースケートを履いたまま歌い踊るというパフォーマンスで1980年代終盤に一世を風靡。
昭和が生んだ最後のアイドルとなった。
メンバー
- 光 (1987年5月 - 1994年8月31日)
- GENJI (1987年2月 - 1994年8月31日)
- 諸星和己 (もろほし かずみ。1970年8月12日生まれ) - センター
- 佐藤寛之 (さとう ひろゆき。1970年11月2日生まれ)
- 山本淳一 (やまもと じゅんいち。1972年2月28日生まれ)
- 赤坂晃 (あかさか あきら。1973年5月8日生まれ) 元・子役舞台俳優
- 佐藤敦啓 (さとう あつひろ。後の佐藤アツヒロ。1973年8月30日生まれ)
- 光GENJI SUPER 5 (1994年9月1日 - 1995年9月3日)
- 内海光司 (リーダー)
- 諸星和己
- 山本淳一
- 赤坂晃
- 佐藤敦啓
内部ユニット
- SAY'S (一時「SAY・S」表記。1992年8月 - 1994年8月31日)
- 佐藤寛之
- 山本淳一
- 赤坂晃
- 佐藤敦啓
- AKIRA & KOHJI (別名:とんがりーず。1994年秋 - 1995年)
- 内海光司
- 赤坂晃
GENJI 脱退メンバー (1987年初頭〜春)
- 田代秀高 (リーダー)
-
たしろ ひでたか。1965年10月12日生まれ。元「桜隊」メンバー。
最初期の「GENJI」で短期間ながらリーダーを務めていた人物。ただしローラースケートのレッスンは一度も受けていない。
なお、ジャニーズ在籍時は生年月日を「1967年2月9日生まれ」として、若く偽って活動していた。
GENJI 候補メンバー (1986年初頭〜1987年初頭)
- 山崎正人 (元「桜隊予備軍」。光の候補メンバーでもあった)
- 阿部直人 (元「桜隊予備軍」。光の候補メンバーでもあった)
- 横山雅巳
- 石山秀雄 (白人とのハーフ)
- 松原一平 (後に「スケートボーイズ」や「平家派」に参加)
-
上記5名は、アイドル雑誌『POTATO』の1987年4月号(撮影日は同年2月18日)でも、後にGENJIとなる5人(諸星、寛之、山本、赤坂、敦啓)と共にジャニーズJr.として登場した。
- 正木慎也
-
正木は少年忍者として活動しながらも、GENJI結成前の1986年後半に東京マリンで行われた最も初期のレッスンに参加。
そして1987年になってからも、後楽園でのローラースケートのレッスンに2回だけ参加している。
- 高木延秀
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高木も少年忍者として活動しながら、GENJI結成前の1986年後半に東京マリンで行われた最も初期のレッスンに参加している。
- 木野正人
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1987年2月22日にジャニー喜多川がGENJIの候補メンバーとして試験的にピックアップした4名の内の1人。
他の3名は田代、諸星、赤坂。
ジャニーは4人を集め、使い捨てカメラの「写ルンです」でテスト撮影も行った。
しかし木野は、「ローラースケートなんか履いたら好きなダンスが出来なくなる」と思い、ローラースケートのレッスンは毎回はぐらかして一度も参加しなかった。
- 城島茂
-
当時奈良県に住んでいた城島にも、「ローラースケートのレッスンがあるから興味があれば来なさい」との電話連絡が行っている。
一度も滑ったことが無かった城島は急いでローラースケートを購入し、地元のジャスコの駐車場で自主練習をしたが、全く上達出来なかったため、自信を失って後楽園のレッスンには参加しなかった。
- 海老原修 (1986年後半に東京マリンで行われた最も初期のレッスンに参加)
- 松崎優 (1986年末の後楽園の初期のレッスンに参加)
- 中岡真一郎
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「桜隊」に在籍していた1986年初頭のハワイの時点で、ジャニー喜多川から「You、ローラースケートに興味ある?」と誘われたが、「興味ない」と断った。
- 他、5名〜10名ほど
また、候補メンバーには該当しないが、「GENJI」が結成され、テレビデビューした1987年春以降にも、ジャニー喜多川によって後楽園でのローラースケートのレッスンに新たに招かれたり、ローラーゲームの試合や、ミュージカル『スターライト・エクスプレス』を観させてもらっていたジャニーズJr.たちも存在する。 佐藤正人、桑名兼司、橋本久良生、中居正広、森久典、森且行ら。
テレビ番組などで、後輩メンバーによって、「長野君 (長野博) もGENJI結成前に後楽園でのローラースケートのレッスンに参加していた」と語られることがあるが、これは誤り。 長野自身が、2007年9月16日放送のNHK-BSプレミアム『ザ少年倶楽部 プレミアム』にて、「ローラースケートを練習してるメンバーが居るって噂は聞いてたけど、俺は全くひっかからなかった」と語っている。
更に、「中居正広もGENJIのメンバーになりかけていた」とテレビ番組などで語られたり、中居自身が話を盛り上げるために、「もう少しローラースケートの練習を頑張っていたら、光GENJIだったかもしれない。ローラースケートの練習より遊びを優先していた」などと語ったこともあるが、これも正確には誤り。 中居がジャニーズに入所し、ローラースケートのレッスンに参加した時点では、既にGENJIは存在している。 ジャニーズ事務所が2020年2月21日に公式サイト「Johnny's net」にて中居の退所についての報告文を出す際、中居の所属年数のカウントミスが発生し、「ジャニーズJr.として入所してからの約34年間」と記載。 これを見た各メディアがそのまま逆算して一斉に「1986年に入所」と報じてしまったため、以降はテレビ番組を始めとする全てのメディアで毎回「1986年入所」とされ続けているが、これは誤報。 中居は、14歳だった中学2年の終わりの1987年2月(正確には2月15日)にオーディションを受け、中学3年になった同年5月からレッスンに通い始めた (雑誌『POTATO』1988年5月号より)。 よって、中居がジャニーズ事務所に所属した正確な年月は、「約33年間」である。 第一、「34年間の所属」だったとすると、中居の入所年齢は中学1年の終わりの「13歳」にまで遡ってしまうことになるにもかかわらず、この矛盾点に気付けるメディアは一つも無かった。
なお、赤坂晃は後から遅れてGENJIに加入しているが、これはあくまでも特例。 そもそも赤坂はジャニーズのオーディションの当日(中居正広と同じ1987年2月15日。GENJIの結成前)からいきなりローラースケートのレッスンに参加させて貰ったり、ジャニーズに入所して3日後にもかかわらず、雑誌『POTATO』(1987年4月号。撮影日は同年2月18日)にもGENJIの候補メンバーとして掲載されるなど、ジャニー喜多川から非常に気に入られ、特別待遇を得ていた人物だった。
光 候補メンバー (1987年春)
サポートメンバー (1988年6月)
後身ユニット
リーダーについて
- 光GENJIのリーダーを大沢樹生だとする文献や報道が多々存在するが、2011年9月23日にイオンモール川口キャラで行われた大沢のトーク&ミニライブイベントにて、司会者から「光GENJIのリーダーでもあった大沢樹生さん」と紹介された際、
「本当は自分がリーダーじゃなくて内海君だったけど、マスコミの書き方が俺になっていて、最初は否定していたけど、そのうち否定するのも面倒臭くなってそのままにしている」と述べた。
しかし、大沢樹生をリーダーだとする文献や報道も、決して間違いという訳ではなく、実際に初期の頃は大沢がリーダーだった。 光GENJIがまだレコードデビューする前の段階で出演したテレビ番組『ブラボー!夢工場』(1987年8月11日、フジテレビ)でも、大沢がリーダーだとはっきり述べられている。
概要
- 1986年初頭、ジャニー喜多川がバラエティ番組『アイドル花組おとこ組』(日本テレビ)のハワイロケに同行した際、ローラースケートで遊ぶ現地の人たちを目にし、アイドルにローラースケートを履かせて踊らせる案をひらめいて構想を練り始める。
そんな折、ローラースケートを使ったロンドンの人気ミュージカル『スターライトエクスプレス』が、フジテレビの主催とナムコの協賛で1987年11月より日本でも公演されることが決定。 更に、ジャニーズ事務所のタレント・川ア麻世が同ミュージカルのオーディションに受かって出演することが決まった。 ここまで条件が揃えば、もうこの機会に便乗する以外に手は無いと考え、新たなアイドルグループを作って、ミュージカルのキャンペーンだと称して割り込み、ミュージカル自体が元々持っていた話題性、宣伝力を利用しながらレコードデビューさせてしまおうと発案。 ジャニーズ事務所は、主催であるフジテレビに顔が利き、所属タレントの川ア麻世もミュージカルに出演するため、キャンペーンとして便乗することは容易であった。
- ジャニーはまず手始めとして、1986年の後半より、ダンスレッスンに来ていたジャニーズJr.の内、3名〜5名ほどの少人数のJr.をピックアップしてお金を渡し、
「これで今からスケートリンクに行ってローラースケートの練習をしてきなさい」と指示するようになる。
練習場所は当初、足立区・西新井の東京マリンだったが、途中から後楽園のスケートリンクに変更された。
最初はローラースケートの講師も付いておらず、Jr.たちだけで自由に滑って遊んでいるだけの状態だった。
後楽園に移ってしばらくしてから講師は付くようになったが、それでもJr.の数はまだ少人数のままだった。
そしてジャニーは、1987年1月1日に日本武道館で開催された少年隊のコンサート「NEW YEAR CONCERT ’87」の、錦織一清のソロ曲『FRIDAY NIGHT』の場面にて、ジャニーズJr.(諸星和己ら)にローラースケートを履かせ、錦織の後ろを試験的に走行させた。
続いて、約15〜20名のJr.を集め、1987年2月14日(土曜日)&15日(日曜日)に、後楽園ローラースケートリンクにて第一回目の正式なレッスンを行う。 3月半ばの土日に第二回目のレッスン。そして春休みが始まる3月下旬より、火・木・土の週3回、15時〜18時での本格的なレッスンが始まった。 講師は元「東京ボンバーズ」の小泉博、後楽園ローラースケートリンク所属の裕紀 (後のDJ-Yuuki → 55-Yuuki および TV-Yuuki。男性。9月18日生。東京都出身。[1])、ミュージカルに出演する川ア麻世ら。 更に、当時後楽園ローラースケートリンクの常連客だった女性(後に都立墨田工業高校で山本淳一と同級生にもなる人物。高校時代は上野のムラサキスポーツでアルバイト)も光GENJIに指導していた。
ジャニーはこの時、「『スターライトエクスプレス』のオーディションに向けての練習」との名目でJr.たちを集めていた。 事実、当ミュージカルに関連して行われる「ローラーディスコ全国大会」があり、入賞者は特典としてミュージカルにスタント出演することができた。 しかし、ジャニーはその大会にJr.たちを出すつもりなど全く無く、あくまでも、Jr.たちを練習に誘い出す口実に使っただけであった。 「新たなグループを作ってレコードデビューさせる。同年4月からは早速、テレビ番組へのレギュラー出演も決まっている」という本当の理由をジャニーが言わなかったのは、ローラースケートに取り組むJr.たちの素の表情、姿勢を見るためであった。
同じ頃、ジャニーはデビューシングル用の楽曲制作をチャゲ&飛鳥に依頼する。
- ジャニーは2月に行われた第一回目のレッスンを見た段階で、まずは10名のジャニーズJr. (諸星、寛之、山本、赤坂、敦啓、山崎、阿部、横山、石山、松原) をピックアップ。
2月18日にアイドル雑誌『POTATO』(1987年4月号、学習研究社)の撮影を行わせる。
続いて2月22日にテレビ朝日の第1リハーサル室で行われたジャニーズJr.のダンスレッスンでは、諸星和己、入所したばかりの赤坂晃、そして、ローラースケートのレッスンには参加していなかったが、木野正人と、元「桜隊」の田代秀高の計4名を新グループの候補として集め、使い捨てカメラの「写ルンです」でテスト撮影も行った。
しかし2月の内にまたメンバーが入れ替えられ、田代秀高、諸星和己、佐藤寛之、佐藤敦啓、山本淳一の計5名を招集したが、山本は当時中学3年生で受験があったために辞退。残る4名での結成となった。 リーダーは最もキャリアがあった最年長の田代。
この4名でアイドル雑誌『POTATO』(1987年5月号)でグループとして初お披露目されたが、この時点ではまだ正式なユニット名は無く、「ジャニーズJr.の新グループ」とだけ紹介された。
- 同年3月25日、ミュージカルのタイトル『スターライトエクスプレス』をヒントに、ジャニーは4人に「ライト・イン・シャドウ」というグループ名を付ける。
ジャニーは当時、敦啓を最も売り出したいと考えており、年下の寛之&敦啓を「ライト」、年上の田代&諸星を「シャドウ」にそれぞれ分けたが、諸星がジャニーに「影(シャドウ)になるなんて嫌だ!」と突っぱねた結果、性格の明るい田代&諸星が「ライト」、控えめな寛之&敦啓が「シャドウ」という分け方に変更された。
- しかしこの直後、ジャニーは新たに「桜隊予備軍」出身の2名のジャニーズJr.(山崎正人、阿部直人)を追加したくなる。
また、大正から昭和に移る時の「光文事件」を経て、昭和の次の元号は、改めて「光昭」や「和光」などの「光」の文字を使ったものになるとの噂を知ったジャニーは、次の時代にも見合うように、グループ名にも「光」の文字を使おうとひらめく。
しかも「光」の字は英語で「Light (ライト)」なので、スターライトエクスプレスや、ライト・イン・シャドウに通じる部分もあった。
そこで歴史が好きなジャニーは、単にメンバーを追加するのではなく、ライト・イン・シャドウを「GENJI」に改名し、山崎と阿部の2人は「光 」という名の別ユニットとして結成させ、2つを合体して「光源氏」の意味になるようにしようと発案。 この「2 in 1」の形式は、「ライト・イン・シャドウ」でライト組とシャドウ組とに分けていた点からの流用。 更にゆくゆくは、「源氏 vs 平家」の意味にもなるように、平家の名を持つユニットも新たに作って、両者を対抗させるという構想も練った (後の平家蛍 → 平家派)。
(元号からの引用の件は、後に元「忍者」の柳沢超が、「ジャニーさんから直接聞いた」と明かしている。 また、「光GENJI」というグループ名を決める際にジャニーが合宿所の自分の書斎で紙に色々と書いて考案している姿を、木野正人が目撃している)
- ジャニーはすぐさま、ライト・イン・シャドウを「GENJI」に改名。
続いて、山崎正人と阿部直人の2名からなる「光」を合体させようとしていた矢先に、山崎が突如事務所を退所してしまった (阿部は1988年まで所属)。
更にその直後、今度は古株Jr.である大沢樹生も、「事務所を辞めさせて下さい」と突然ジャニーに申し出る一幕が起こる。
そこでジャニーは、山崎&阿部コンビの代わりに、古くから事務所で頑張ってきた大沢、そして大沢と同じ「イーグルス」出身の内海光司の2名を「光」として結成させ、この機会に一緒にレコードデビューさせてあげようと思い立った。 そして大沢に、「You、ローラースケート興味ある? 興味なくてもやってみない? 絶対スターになれるからやりなよ」と、やはりグループ結成やレコードデビューのことまでは具体的に明言せずに誘い出した結果、大沢と内海もローラースケートのレッスンに遅れて参加するようになった。
- 1987年4月5日より放送開始の音楽番組『全国歌謡選抜 サブロー・シローの歌え!ヤング大放送』(TBS)に、まずはGENJIの4名だけでレギュラー出演を開始。
この番組のオープニングで、初のオリジナルソング『今、君と歌いたい』を毎回歌っていた。
ただしこの時点ではまだローラースケートは披露していない。
(上の画像でメンバーたちが着ている青白ブルゾンは、原宿の「アイドルワンダーランド」内の少年隊グッズ専門店「koe:r 」のもの)
間もなくして、GENJIに山本淳一が加入して5名に。 その翌週、最年長でリーダーだった田代が脱退させられ、再び4名に (田代だけ、結局一度もローラースケートのレッスンには参加しなかった)。 更にその翌週、赤坂晃が加入して再び5名になり、ここでGENJIのメンバーが最終確定。 この5名で、テレビ東京『ヤンヤン歌うスタジオ』にも出演した。 雑誌では、1987年4月28日発売の『週刊セブンティーン』(同年5月12日・19日合併号、集英社)が初登場となり、ローラースケートのレッスンを受けていることも、この雑誌で初めて明かされた。
(上の画像のブルゾンも「koe:r 」のもの)
続いて『Duet』(同年6月号、集英社)では、誌面で「光ってるゾ! GENJI」と紹介され、後に発表される新グループ名「光GENJI」のヒントが示された。
下の3枚は1987年4月17日に代々木公園で撮影されたもの (『POTATO』同年6月号。1枚目の画像の衣装は私服)。 この雑誌で初めてローラースケートを履いて誌面に登場した。
- 1987年5月の頭に、デビューシングル『STAR LIGHT』をチャゲ&飛鳥が完成させる。
これを機に「GENJI」と、年長組「光」を合体させたユニット「光GENJI」を正式に結成。
そして5月上旬の内に早くも、新宿御苑前の「studio TAKE ONE」にてデビューシングル『STAR LIGHT』のレコーディングを行う。 当日は作者である飛鳥涼も同席した。
(「レコーディングは7月上旬に行われた」と書かれた資料は誤り。 また、光GENJIがチャゲの方と初対面した日は、1987年9月23日放送のフジテレビ『夜のヒットスタジオDELUXE』にて)
- 同年6月6日、甲子園球場で開催された『’87 ABCヤングアイドル野球大会』にGENJIの5名が出場し、GENJI名義で『STAR LIGHT』を初披露。
グラウンドの土の上で歌われたため、ローラースケートは無し。
- 同年6月、簡単な振付けで『STAR LIGHT』のミュージックビデオが撮影される。
スタジオ撮影の他に、渋谷のスクランブル交差点と代々木公園でロケ。
ローラースケートを履いているシーンは部分的にのみ挟まれた。
- 同年6月23日発売の雑誌『週刊セブンティーン』(1987年7月7日号)にGENJIの5名が再び登場。 撮影地は渋谷。
5人は『POTATO』(同年6月号)以来、再び誌面でローラースケートを履いているものの、ローラースケートを履きながら歌って踊るグループであることまでは、まだ具体的には明かされていない。 そして、「8月21日に『STAR LIGHT』でレコードデビュー決定」と紹介された。(その後、デビュー日が変更。実際にデビューしたのは8月19日)
- 同年6月25日(木曜日)、後楽園ローラースケートリンクにてデビュー会見 & 公開振付レッスンを行う。
ここで初めて、「光」と「GENJI」が合体したグループであることと、ローラースケートを履きながら歌って踊るグループであることが具体的に明かされた。
ジャニー喜多川がハワイで目にしたローラースケート、
ミュージカル『スターライトエクスプレス』の来日、
そのミュージカルに自社のタレント・川ア麻世が出演すること。
これらの条件が重なったことで、「光GENJI」という名の、ローラースケートを履いた伝説のスーパーアイドルグループが誕生した。
(同時に、大沢樹生の突然の辞意表明が無ければ、田代秀高は脱退させられずにデビュー出来ていたことになり、大沢の進退が田代の人生までをも大きく変えてしまう結果となった。詳述は田代の項目にて)
なお、ジャニー喜多川の当初の案は、ローラースケートを履かせた上で更に楽器も持たせるグループにするつもりだったが、さすがにそれは難しいということで、ローラースケートのみとなった。
- 同年7月26日にTBS『ロッテ 歌のアルバムNOW』と、8月2日放送用に事前収録されたテレビ東京『ヤンヤン歌うスタジオ』に、GENJIの5名だけで「光GENJI」名義で出演。
いずれもローラースケート無しの振り付けで『STAR LIGHT』を披露。
- 同年7月29日、フジテレビ『夜のヒットスタジオDELUXE』に出演し、初めて7人揃っての『STAR LIGHT』を披露。
そしてローラースケートを着用したバージョンの振り付けも、この時に初めて披露された。
それまではなかなか人気に火が付かなかったが、この一夜の放送によって一気に大ブレイクする。
- 同年8月1日、デビューイベントツアー「光GENJI・サマープレゼント 歌と握手会」を福岡の「かしいダイエー駐車場」からスタート。
8月28日まで全国10ヶ所で開催し、4万人を動員。その内、2万8千人とは握手もした。
(看板は「光GENGI」と誤植されている)
- 同年8月7日、テレビ朝日『ミュージックステーション』に初出演。
- 同年8月8日と9日、中野サンプラザホールで行われた男闘呼組のコンサートに7人でゲスト出演。 ローラースケート無しの振り付けで『STAR LIGHT』を披露。
- 同年8月19日、ポニーキャニオンから『STAR LIGHT』でレコードデビュー。 キャッチフレーズは「超新星から送られたメッセージ。」。(ネット上に流布されている「超新星からのメッセージ」は誤り)
デビュー直後から爆発的な人気を誇り、その年の「日本ゴールドディスク大賞」にて最優秀新人賞、最優秀シングル賞、優秀アルバム賞に該当する各賞、「ゴールデン・アロー賞」にて最優秀新人賞、「FNS歌謡祭音楽大賞」にて特別賞を受賞。 しかしこれらの賞は、アーティストへの贈呈が最初から既に判明している形式のものであり、「候補者をステージの上で競わせ、その中から最優秀者を決める」という形式の以下の新人賞レース- FNS歌謡祭音楽大賞
- 銀座音楽祭
- 新宿音楽祭
- 全日本歌謡音楽祭
- 全日本有線放送大賞
- 日本歌謡大賞
- 日本テレビ音楽祭
- 日本有線大賞
- 日本レコード大賞
- メガロポリス歌謡祭
- ヤング歌謡大賞・新人グランプリ
- 横浜音楽祭
- 1988年1月に発売したビデオ『太陽がいっぱい』が約30万本販売。 当時の日本のビデオソフトとしては最大の売り上げを記録した。
- 1988年6月、フジテレビ開局30周年&ニッポン放送開局35周年記念として、非売品のビデオ『あ・き・す・と・ぜ・ね・こ』が制作される。
同ビデオは、10万本限定の抽選プレゼントだったが、応募総数は250万通以上に達し、ニッポン放送で当時一番大きかったスタジオ「ラジオハウス銀河 (通称:銀河スタジオ、略称:銀スタ)」にて同年6月27日に“大抽選会”が行われた。
- 1988年度のオリコン年間シングルチャートでは、『パラダイス銀河』、『ガラスの十代』、『Diamondハリケーン』の3曲が1位、2位、3位を独占するという、1978年度のピンク・レディー以来の快挙を成し遂げた。 また、1stアルバムの『光GENJI』も1988年度のオリコン年間アルバムチャートの第1位に輝いている。
- 1988年12月31日、「第30回 日本レコード大賞」にて大賞を受賞。
- 1988年から1992年まで、テレビ朝日『ミュージックステーション』にレギュラー出演していた。
その出演数は実に234回を数え、それまでに出演した他の全アーティストの中で最多である。
しかし、1990年頃から早くもブームは沈静化してゆく。 その要因としては、徐々にアイドルや音楽番組が衰退し、更にはバンドブームという大きな時代の波にも呑まれたこと、ファン層以外では、初期のローラースケートによるパフォーマンスの印象があまりに強すぎて、「光GENJI=ローラースケート」以外の新たなイメージの浸透が進まなかったこと、CHAGE and ASKAより提供された初期の楽曲に比べ、それ以上の良質かつインパクトを残す作品に出会えなかったことなどが挙げられる。
- 1994年春、メンバー7人全員で事務所の副社長・メリー喜多川の自宅にアポ無しで突然訪問し、解散したい旨を直訴する。しかしメリーに説得され、解散を思いとどまるメンバーが出たり、諸星はソロCDデビューをしていたことによる契約の関係でどうしても残らざるを得なくなったりで、結局、大沢樹生、佐藤寛之の2人だけが1994年8月31日をもって脱退することとなる。
なお、その夏のコンサートツアーでは、脱退劇を良く思わないメリー喜多川の意向により、大沢&寛之の出番はほとんど無くされてしまった。
メンバーが5名になってからは、グループ名を「光GENJI SUPER 5」に改名して活動。
- 翌1995年9月3日に解散。(公の場では“解散”ではなく“卒業”と表記)
この解散コンサートのチケットには、最高で100万円もの値が付き、またそれが実際に売れたという逸話を持つ。
なお、光GENJI SUPER 5の解散については、諸星とジャニーズ事務所との間に、マネージメントにおける確執(特にギャランティ問題)があったことが解散要因の一つであったと、諸星の自著『くそ長〜いプロフィール』で明かしている。 また諸星は、光GENJIが稼ぎ出した純利益の総額は、約5000億円に上るとも述べている。(2017年11月21日、FOD『スナック幸子』にて)
- 2022年8月19日、ジャニーズ事務所に残る2名(内海、アツヒロ)で、企画ユニット「U&S」を結成。
エピソード
- 光GENJIに対するファンの熱狂ぶりは驚異的なもので、当時の状況をリアルタイムで体験したファンたちの中には、光GENJIが最後のスーパースターだという声や、SMAPや嵐をはじめとする後輩のどのユニットの人気よりもすごかったと語る者が多い。
SMAPや嵐がじわじわとゆっくり人気を獲得し、長年に渡って国民的アイドルとして活躍したのに対し、光GENJIの最大の人気はデビュー直後に訪れた。 その人気は一つの社会現象となって、まさに国中が揺れ動くかのように日本列島を席捲。 人気沸騰時の1987年〜1988年の勢い、過熱ぶりは凄まじいものがあった。 「ジャニー喜多川の生涯で最大の発明が光GENJI」だと言われており、勢いは長く続かなかったものの、“瞬間風速”、“瞬発力”としての人気の高さで言えば、光GENJIを超えるアイドルは後にも先にも存在しない。
- ローラースケートを履いてのパフォーマンスが話題となり、日本全国の小中学生の間にローラースケートを大流行させた。
- デビューしてから最初のバレンタインデー(1988年2月14日)に、全国から10トントラック4台分(約3万個)のチョコレートが、恵比寿の「ジャニーズファミリークラブ」に届く。
1989年のバレンタインには、4トントラック20台分ものチョコレートが届き、ジャニーズファミリークラブを管轄する渋谷郵便局には、全国から送られた小包が山のように積まれ、パニック状態となった。
1990年のバレンタインも、4トントラック20数台分のチョコレートが届いた。 こうした現象は、毎年ワイドショーでも取り上げられ、風物詩となった。
1992年のバレンタインには、4トントラック約35台分、1993年には4トントラック約40台分のチョコレートが届いた。
そして、光GENJIのメンバーが7名だった最後の年(1994年)には、4トントラック45台分もの大量のチョコレートが届いた。 この年は、バレンタインデーの前日(1994年2月13日)に日本武道館に約6万人のファンを集めた握手会イベント「St.Valentine's Day Eve in 日本武道館」も開催されたため、事前に光GENJIに届いた4トントラック45台分のチョコレートは全て日本武道館に置かれ、山積みにされた。 イベント自体は、午前10時前にスタートし、23時に終了。 途中の休憩時間を除き、延べ約6万人のファンと、入れ替え制で10時間もかけて握手を行った。 (翌日のTBSのワイドショー『モーニングEye』でのみ「5万人とアツアツデート」とテロップ表記されたが、実際は約6万人。 また、内海のみ舞台『たそや行燈』の公演中だったため、舞台を終えた16時過ぎから参加した)
なお、毎年大量に届いていたチョコレートは、タレントとスタッフ、家族に食べられるだけの量を渡した後、同封の手紙などを整理し、児童福祉施設や海外の恵まれない子どもたちに送られていた。 その後、タレント宛て(光GENJIではなく別のタレント)に髪の毛入りの手作りチョコが届くなどの悪質な事例があり、ジャニーズ事務所がファンレター以外のすべての「贈り物」を禁止にし、食品などは安全管理上すべて焼却処分にすると発表した。
- 佐藤敦啓は、実家がツアー旅行の観光ルートに組み込まれる体験をしたと自伝本『少年』で語っている。
- 1988年、最年少メンバーの2人(赤坂晃、佐藤敦啓)は中学3年生で、プライベートで学校の修学旅行にも参加したが (2人とも行き先は京都・奈良)、旅行先には大量の追っかけの他、パパラッチも出没。
行き帰りの京都駅や東京駅の構内でも、メンバーを一目見ようと数百人のファンが待ち構えており、多くの駅職員や鉄道警察隊が必死に制止するという凄まじい状態であった。
宿に入ってからも、外出時のメンバーの安全を確保するため、眼鏡や帽子で変装させたり、外出先についての虚偽情報をファンたちに流したり、更には影武者までもが使用された。
帰路の東京駅でも、押し寄せたファンのために新幹線ホームからの移動すらままならず、時には郵便物の搬送などに使われる業務用通路を通って駅から脱出するという状態であった。 この模様の一部は、当時の歌番組でも放映された。
- ファンクラブの会員数は50万人に及んだ。
また、ファンたちによる「応援グループ (親衛隊)」も日本全国で作られた。
大阪のグループ「紫SHIKIBU」が最大と言われ、他にも「ピンクシャンパン」、「敦啓宗教」、「ZOO」、「めるしぃぼく」など、数多くのグループが存在した。
- 内容が悪いためにヒットはしなかったが、光GENJIはファミコンソフトにもなっている。 (ディスクシステム 『光GENJI ローラーパニック』)
- 労働基準法
-
光GENJIはその爆発的な人気のあまり、「法律を変えたアイドルグループ」としても知られている。
光GENJIはデビュー当初、赤坂と敦啓の2名が「労働基準法61条5項」により、基本的に夜8時以降〜翌朝5時までテレビ番組への生出演ができないとされていて、夜8時以降に放送されていた『ザ・ベストテン』や『歌のトップテン』などの生放送番組に、メンバー全員で出演したりしなかったりという曖昧な状況が続いていた。 出演しない場合は、 「歌の部分のみ事前収録する」、 「メンバー5人が歌っている生映像に出演できない2人のVTRを合成する」、 「当時バックで踊っていたSMAPの中居、木村が代わりに入る」などの工夫をしていた。 (労働基準法に関しては、伊藤つかさが『ザ・ベストテン』にランクインした際、番組側の自主規制により生出演できなかったというエピソードがある)
こうした状況に対し、当時14歳のメンバーが深夜の歌番組に出演した疑いで、管轄する労働基準監督署が1988年6月にジャニーズ事務所へ調査に入った際、 「報酬面」、「税法上の取り扱い」、「事業所所得として課税されている」などの実態を確認して考察した結果、メンバーは「労働者とは認められない」という判断を下した。 さらに光GENJIの出演に関する諮問があって国会や関係機関で議論が行われ、芸能人において一定の条件(「他人によって代替できない“人気”等、当人の個性が重要な要素となっている」、「契約形態が雇用契約でない」など)を満たした者は「表現者」とみなし同法を適用しない(端的には「人気の無い者は労働者とみなす」)という結論になり、1988年7月30日に通達(いわゆる「芸能タレント通達」、「光GENJI通達」、昭和63年7月30日、基収355号)が出され、それ以降は夜9時以降であっても、メンバー全員で出演することが多くなった。
この通達を基に若年層芸能人の深夜活動が行われていたが、1999年12月に若年層芸能人が絡んだ深夜労働に関する書類送検が発生した。 (当時15歳の女性タレント・大森玲子がラジオの深夜生放送に出演した際、所属事務所のホリプロと放送局は「表現者に該当する」と考えていたが、労働基準監督署は「労働者に該当する」と判断したため、大阪府警察がホリプロと毎日放送の社員を労働基準法違反の疑いで書類送検)
ジャニーズ事務所所属の未成年タレントの深夜労働を合法化していた「芸能タレント通達」が、歌手デビューもしていた大森玲子に及ばないのは理不尽だということで一部からは批判も出た。 そして、この件について2000年4月13日に行われた「第147回国会 青少年問題に関する特別委員会 第5号」で取り上げられたことなどが契機となり、各テレビ局ともに概ね「たとえ“表現者に該当する人”であっても、15歳未満の芸能人は21時以降に生出演させない」という自主規制を定めている。
- 弟分グループ「SMAP」のネーミングについて
-
「SMAP」というグループ名もジャニー喜多川による命名で、「Sports Music Assemble People」(スポーツ、音楽、集合、人々)を意味する造語である。
SMAPの前身である「スケートボーイズ」のキャッチコピーが、「Sports Music Assemble People」、「SMAP時代のスケートボーイズ」であった。
しかしこれは後付けによる由来であり、当初の本来の由来は、「GENJIの分身」という意味で、GENJIのメンバーそれぞれのイニシャルから取られたものだった。
佐藤のS、諸星のM、赤坂のA、そして山本淳一の小学3年時からの愛称「バンジー」の元々の由来「パンジー (チンパンジーに似ていたから)」のPを合わせて、「SMAP」となった。
(正確には、山本の小学3年時からの愛称「バンジー」を、ジャニーが「パンジー」と思い違いしていたためにPとなった。 そのため、後から「バンジー」が正解だと知ったジャニーは、 「Youってチンパンジーに似ているから“パンジー”じゃなかったの? 信じられない。 You、今から“パンジー”にして!」 という強引な発言まで山本にしている)
この、「GENJIのメンバーのイニシャルから取った」という件については、1989年に『週刊マーガレット』誌上にて連載されたSMAPが主人公の漫画『SMAPに夢中』の第1話にて、SMAPのメンバー自身がインタビューで答えている。 また、『週刊女性』2004年11月9日号に掲載されていた「元ジャニーズ事務所メンバー座談会」にて、山本淳一自身も「ジャニーさんからそう聞いた」と証言している。 2016年1月23日放送のバラエティ番組『せやねん!』(MBSテレビ)では、諸星和己も同じく証言した。 更に諸星は同年2月12日放送のバラエティ番組『5時に夢中!』(TOKYO MX)でも、「スポーツとか、ミュージックの頭文字だとか、違うのよ。俺たちの影武者ってことで、佐藤のS、諸星のM、赤坂のA、山本の(愛称)パンジーのP、それでSMAPなんだよ」と説明した。
なお、ジャニー喜多川が尾崎豊のことをお気に入りで、尾崎の楽曲『17歳の地図』の英訳「Seventeen's map」から引用したという説も一部で存在したが、それは誤りである。 むしろジャニーは、尾崎のことを強烈に嫌っていた。 少年隊が出演した1988年6月22日放送の『夜のヒットスタジオ』を、原宿の合宿所のテレビでジャニーと忍者のメンバーが一緒に観ていた際、狂ったようにシャウトしながら歌う尾崎の姿を目にしたジャニーが、「うわっ! 何だこいつはっ!」と叫んで気味悪がっていたことを、忍者のメンバーが1993年の後半にラジオ番組『忍者、ナン者、モン者 ! !』で語っている。
後輩タレントとの関係
- 年長の2人を「光」、残りの5人を「GENJI」と、一つのグループの中で二組に分けているのが光GENJIの特色だった。
この「2 in 1」スタイルは、後輩グループのV6 (20th Century、Coming Century)、
Kitty GYM (Kitty、GYM)、
Hey! Say! JUMP (Hey! Say! BEST、Hey! Say! 7)、
Mr.King vs Mr.Prince (Mr.King、Mr.Prince)に引き継がれた。
- ローラースケートでのパフォーマンスは、K.K.Kity、Kis-My-Ft.、Kis-My-Ft2、HiHi Jets、Go!Go!kidsなどの後輩グループが受け継いでいる。
- 初期の楽曲『ガラスの十代』と『Diamondハリケーン』でのスケボーのパフォーマンスやバックダンスは、SMAPの前身グループ「スケートボーイズ」が担当した。
1988年12月31日放送の『NHK紅白歌合戦』で光GENJIが「メドレー (ガラスの十代 〜 パラダイス銀河 〜 Diamondハリケーン 〜 剣の舞)」を披露した際には、SMAPが6人でスケートボードで登場している。 更に翌1989年の紅白歌合戦にも、SMAPはコーラスとして参加した。
- 『剣の舞』と『地球をさがして』に登場したバックダンサーグループ「平家派」には、
城島茂、
山口達也、
国分太一、
坂本昌行、
長野博、
井ノ原快彦、
古川栄司、
野口隆史(後の反町隆史)らが在籍していた。
- 『勇気100%』は、NHK教育テレビのアニメ『忍たま乱太郎』の初代オープニングテーマソングに選ばれ、1993年から2002年まで使用された。またこの曲を紅白歌合戦で歌った時は、TOKIOがバックでローラースケートを滑っていた。 2002年からはジャニーズの後輩のYa-Ya-yahに『新・勇気100%』として受け継がれている。
主な出演作品
※ ソロやSAY'Sの出演作は各項目に記載。
バラエティ番組
- 全国歌謡選抜 サブロー・シローの歌え!ヤング大放送 (1987年4月5日 - 9月27日、TBS)
-
番組初期に「GENJI」がレギュラー出演。 最終回には「光」も交えた7人全員でゲスト出演した。
- ロッテ 歌のアルバムNOW (TBS)
- ヤングスタジオ101 (NHK総合)
- ヤンヤン歌うスタジオ (テレビ東京)
- 夜のヒットスタジオDELUXE (フジテレビ) 総出演回数:39回
- ミュージックステーション (テレビ朝日) 出演回数「234回」は歴代最多記録
- ブラボー!夢工場 (1987年8月10日、11日、13日、フジテレビ)
- 歌のトップテン (日本テレビ)
- ザ・ベストテン (TBS)
- 歌え!アイドルど〜む (テレビ東京)
- スーパージョッキー (日本テレビ)
- あぶない少年 番外編 (1987年、テレビ東京)
- 徹子の部屋 (1987年11月23日、1992年1月15日、テレビ朝日)
- NEW YEAR SPECIAL 光GENJI伝説 (1988年1月1日、テレビ東京)
- 第8回 プロ野球オールスター大運動会 (1988年1月1日、テレビ東京)
- 火曜ワイドスペシャル ドキッ!丸ごと水着 女だらけの水泳大会 (1988年2月16日、フジテレビ)
- 十日町雪まつり ホワイトカーニバル ’88 (1988年2月20日、日本テレビ)
- あぶない少年U 番外編 (1988年、テレビ東京)
- 第11回 24時間テレビ 「愛は地球を救う」 (1988年8月28日、日本テレビ) 『Diamondハリケーン』を披露
- あぶない少年 1周年 (1988年9月28日、テレビ東京)
- ’88 光GENJIスペシャル NGもあるA級保存版 (1988年12月26日、テレビ朝日)
- アイドル共和国 (1989年4月1日 - 1991年3月23日、テレビ朝日) 準レギュラー
- フラッシュ&ジャンプ (少年隊、男闘呼組、少年忍者、SMAP、平家派と共に出演した音楽番組)
- 1989年6月11日:NHK BS2、7月22日:NHK総合
- 1989年9月24日:NHK BS2、10月10日:NHK総合
- 1990年2月1日:NHK BS2、2月11日:NHK総合
- 1990年7月7日:NHK BS2、7月21日:NHK総合
- ヤンヤンもぎたて族 (1990年、テレビ東京) 準レギュラー
- 満員御礼!学園キッズ (1990年 - 1991年、テレビ東京) 準レギュラー
- 新春ヤングミュージカルバラエティ 光GENJI・忍者・SMAPの今年は羊も空を翔ぶ (1991年1月3日、テレビ東京)
- SMAPの学園キッズ (1991年、テレビ東京) 準レギュラー
- 独占生中継 ’92隅田川花火大会 (1992年7月25日、テレビ東京) GENJIの5名がゲスト出演
- ザ・ベストテン同窓会 (1993年12月26日、TBS) 近藤真彦、少年隊と共演
- 晴れたらイイねッ! (フジテレビ) - 内海、山本
- アイドルオンステージ (NHK-BS2)
-
光GENJI自体も出演していた番組だったが、1995年8月6日からは内海が司会に抜擢された。
- クイズ☆スター名鑑 (2016年11月27日、TBS)
-
解散後に最も多くメンバーが再集結した番組。 大沢、諸星、寛之、山本の4名がローラースケートスピード対決をした。勝者は山本。
NHK紅白歌合戦
- 第39回 (1988年12月31日) - 「光GENJI ’88メドレー (ガラスの十代 〜 パラダイス銀河 〜 Diamondハリケーン 〜 剣の舞)」
- 第40回 (1989年12月31日) - 「太陽がいっぱい」
- 第41回 (1990年12月31日) - 「CO CO RO」
- 第42回 (1991年12月31日) - 「WINNING RUN」
- 第43回 (1992年12月31日) - 「リラの咲くころバルセロナへ」
- 第44回 (1993年12月31日) - 「勇気100%」
テレビドラマ
連続ドラマ
- あぶない少年 (1987年10月7日 - 12月30日、テレビ東京)
- 桃色学園都市宣言 ! ! 「St.月桂寺HighSchool」
(1987年10月8日 - 1988年3月17日、フジテレビ) - 内海、大沢 - 光GENJI 青春ドラマ あぶない少年U (1988年1月6日 - 9月28日、テレビ東京)
- あぶない少年V (1988年10月12日 - 1989年3月29日、テレビ東京)
-
赤坂、敦啓が出演。 他の5人は第1回のオープニングに少し出演したのみ。
- ワイルドで行こう! BORN TO BE WILD (1988年10月17日 - 1989年3月20日、フジテレビ) - 内海、大沢
単発ドラマ
- 歌謡ドラマ 「素直にI'm Sorry」 (1988年11月23日、フジテレビ『夜のヒットスタジオ』内でのドラマ)
- スターライト・キッズ 〜新・北斗七星伝説〜
-
(1988年10月11日、TBS・火曜ロードショー特別企画 光GENJIドラマスペシャル)
- 時間ですよ 新春スペシャル 〜 梅の湯はギャグでいっぱい (1989年1月2日、TBS)
-
第2話「勝ちゃんが恋におちて そりゃあ、もう大変さ!」にGENJIの5名が出演。
東山紀之と共演。
- 源義経 (1990年1月1日、TBS) - 内海、大沢、諸星
- 若さま侍捕物帖 〜 陰謀渦巻く江戸城大奥の秘密
(1991年1月2日、テレビ朝日) - 内海、敦啓 - 光GENJI殺人事件 (1991年3月30日、日本テレビ)
-
バラエティ番組『大マジカル頭脳パワー ! ! スペシャル』の推理クイズコーナー「マジカルミステリー劇場」のドラマ。
- 非行少年たち (1992年10月15日、日本テレビ・ドラマシティ ’92)
映画
- 少年武道館 (1988年2月20日、東宝)
- ロックよ、静かに流れよ (1988年2月20日、東宝) 友情出演
- ふ・し・ぎ・なBABY (1988年12月18日、東宝)
- …これから物語 〜少年たちのブルース〜 (1988年12月18日、東宝) - 内海、大沢
-
ジャニーズJr.の中本雅俊も出演。
ラジオ
- 光のスターライトキッス (1987年10月12日 - 1991年4月、ニッポン放送) - 光
- GENJI GENKI爆発 ! !
-
(開始前の仮タイトルは『GENJI爆発百点満点』だった。1987年10月17日 - 1991年4月5日、ニッポン放送) - GENJI
- All about 光GENJI (1991年4月8日 - 1993年4月2日、ニッポン放送)
CM
光GENJI- ミュージカル「STAR LIGHT EXPRESS」スポットCM
-
(「レッスン編」&「スター誕生編」、1987年7月 - )
- ポニーキャニオン 「STAR LIGHT」 (1987年)
- ニッポン放送のキャンペーンボーイ (1988年、ニッポン放送)
-
CMではなく、ポスターと、ラジオでのステーションジングルを担当。
ジングルでは光GENJIのメンバーが「Hey! トンデモはねてるニッポン放送〜♪」と歌っており、この歌詞はキャッチコピーとして赤色の縦長ポスターにも書かれていた。
- ゼネラル石油 (1988年10月1日 - 1989年2月14日)
- 森永エスキモーアイス 「クリスピーナ」 (当初はGENJIの5人だけが出演)
- 森永エスキモーアイス 「スーパークリスピーナ」 (当初はGENJIの5人だけで出演)
- 西武園ゆうえんち アイドル共和国誕生篇 (1989年3月17日 - 、関東ローカルCM)
- ナショナルエアコン 「Eolia」 (1992年 - )
- ローソン 「ビジュアルレコード ジャニーズ・ワールド強力編 〜 光GENJIスペシャル」 (1994年。大沢、諸星、赤坂の3名が出演)
- 森永エスキモーアイス 「ボングーショコラ」 (1988年4月20日 - )
- 森永エスキモーアイス 「クリスピーナ」 (1988年4月20日 - 。後に7人全員で出演)
- 森永エスキモーアイス 「スーパークリスピーナ」 (後に7人全員で出演)
- 森永乳業 「ワンショット」 (1988年5月 - )
- 大塚化学 「マイクロマジック」 (1988年7月 - )
- 不二家 「アメリカンバー」 (1988年9月10日 - )
- 不二家 「バレンタイン HEART WEEKS」 (スチル広告のみ。1989年2月14日 - 3月14日)
- 不二家 「アメリカンバー2」 (1989年9月30日 - )
- ハウス食品 「とんがりコーン ローストガーリック味」 (1994年 - 。2人でCMソングもリリース)
ミュージカル
- バンダイスーパーミュージカル 「聖闘士星矢」 (1991年9月1日、青山劇場)
-
千穐楽のゲストとして、GENJIの5人が出演。
ディナーショー
- PARTY HIKARU (1993年5月3日、東京プリンスホテル 鳳凰の間)
-
内海と大沢の「光」によるディナーショー。 全10曲を披露。 バックダンサー:TOKIO。 特別ゲスト:東山紀之、赤坂晃。
イベント
- 光GENJI・サマープレゼント 歌と握手会 (1987年8月1日 - 28日、全国10ヶ所)
- Roller Disco in BUDOKAN (1987年10月19日、日本武道館) 少年隊と共に出演
- WINNING RUN サマーステーション キャンペーン (1991年8月19日 - 21日)
- St.Valentine's Day Eve in 日本武道館
-
(1994年2月13日、日本武道館。約6万人のファンを集めた入れ替え制の握手会イベント。午前10時前から23時まで開催した)
コンサート
1988年
- 少年御三家・新春一番歌いぞめ (1月1日、日本武道館)
- WINTER CONCERT (全国3ヶ所8公演)
- 前夜祭だよ!男闘呼組&光GENJI (2月18日、東京宝塚劇場)
-
映画『ロックよ、静かに流れよ』の公開記念イベントとして開催された、男闘呼組とのジョイントミニコンサート。
コンサートだけでなく映画『ロックよ、静かに流れよ』も上映された。
入場チケットは3,000円で当日券のみの販売。
2,500名の収容に対し、1万人の少女が当日売りのチケットを求めて東京宝塚劇場に押しかける騒ぎとなった。
そして、学校をサボってチケットを買い求めに来た女子中学生8名が補導される事件も起こった。
- SPRING CONCERT (全国13ヶ所26公演)
- 少年御三家・春の陣
- SUMMER CONCERT (全国9ヶ所26公演)
- 少年御三家・夏の陣
- WINTER CONCERT (2ヶ所9公演)
1989年
- BIG EGGコンサート (2公演)
- SPRING CONCERT
- SUMMER CONCERT (全国3ヶ所15公演)
- WINTER CONCERT (2公演)
1990年
- SPRING CONCERT ’90 (全国5ヶ所25公演)
- SUMMER CONCERT ’90 (全国3ヶ所12公演)
- 超アイドル博 IN JAPAN (10月10日:東京ドーム、13日:阪神甲子園球場)
- WINTER CONCERT ’90
1991年
- SPRING CONCERT ’91 (2ヶ所8公演)
- SUMMER CONCERT ’91 (全国8ヶ所24公演)
- 超アイドル博 IN JAPAN (10月10日:東京ドーム、13日:阪神甲子園球場)
- WINTER CONCERT (2ヶ所10公演)
1992年
- SPRING CONCERT ’92 (全国3ヶ所13公演)
- SUMMER CONCERT 1992
- 超アイドル博 IN JAPAN (10月4日:阪神甲子園球場、10日:東京ドーム)
- WINTER CONCERT (全国3ヶ所10公演)
1993年
- BOYS in August
- BRAVO!NIPPON 〜雪と氷のファンタジー〜
1994年
- ヨーソロー!出航 (3公演)
- FOREVER YOURS (全国3ヶ所12公演)
1995年
- 卒業コンサートツアー 「Bye-Bye for Tomorrow, See You Again, P/S I Love You」 (全国3ヶ所10公演)
ディスコグラフィ
光GENJI
シングル
- STAR LIGHT c/w ROLLING STOCK (1987年8月19日)
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A面曲の略称:スーライ、スタライ。 1987年度オリコン年間順位4位。
予約2大特典として、B2ポスター(予約者全員)と、抽選で2000名に『STAR LIGHT』のミュージックビデオが配布された。 - ガラスの十代 c/w Graduation (1987年11月26日)
-
A面曲の略称:ガラ十。 スケートボーイズ(SMAPの前身グループ)がバックを務めた。
映画『ふ・し・ぎ・なBABY』の挿入歌や、中日ドラゴンズ・立浪和義のルーキーシーズン(1988年)のテーマ曲に使われていた。
B面曲は後にジャニーズJr.がカバー。
1988年度オリコン年間順位2位。 - パラダイス銀河 c/w LONG RUN (1988年3月9日)
-
A面曲の略称:パラ銀。 A面曲は作詞曲:飛鳥涼。 第30回 日本レコード大賞受賞曲。 第61回 選抜高等学校野球大会入場行進曲。 後にHiHi Jetsがカバー。
- Diamondハリケーン c/w Welcome (1988年6月21日)
-
A面曲の略称:ダイハリ。 A面曲はスケートボーイズや敦啓PEOPLEがバックを務めた。 1988年度オリコン年間順位3位。
- 剣の舞 c/w 涙の輝き (1988年10月10日)
-
A面曲は平家派がバックを務めた。 1988年度オリコン年間順位7位。
なお、2011年11月28日発売の嵐のアルバム曲『エナジーソング 〜絶好調超 ! ! ! ! 〜』(作詞:嵐、作曲:二宮和也)のAメロやサビの歌詞割り、メロディーのテイストが、『剣の舞』の2番の後から「空の彼方〜」で始まるCメロ部分にそっくりだと言われている。 - 地球をさがして c/w NEW!青春にはまだ早い (1989年3月6日)
-
A面曲は振りの一部に手旗信号が含まれており、手旗信号のブームを巻き起こした。
バックは引き続き平家派が務めた。 1989年度オリコン年間順位11位。
また、本来この6thシングルは、3rdアルバム収録曲である『青春にはまだ早い』と『いつか、きっと…』のどちらかがA面として出るはずだった。 しかし、ジャニー喜多川が『青春にはまだ早い』、メリー喜多川は『いつか、きっと…』を推して揉めてしまい、それならどちらもやめましょうということになり、『地球をさがして』が6thシングルとなった。 - 太陽がいっぱい c/w 時をこえたフェスティバル (1989年7月20日)
-
A面曲は作詞曲:大江千里で、紅白歌合戦出場曲 (バックダンサーにSMAPが登場)。
シングルジャケットは全部で8種類も作られた。
1989年の「第20回 日本歌謡大賞」と「第18回 FNS歌謡祭音楽大賞」でいずれも大賞を獲得している。
B面曲はフジテレビ『ひらけ!ポンキッキ』の挿入歌。
1989年度オリコン年間順位4位。
- 荒野のメガロポリス c/w PLEASE (1990年2月7日)
-
アナログEPレコードの販売は当シングルが最後。
両曲とも作詞・作曲:飛鳥涼。
この2作の詞の内容は対を成しており、A面曲が絶望的な世界観の中で「愛を投げて 夜を止めて」と訴えるのに対し、B面曲は「愛を投げましょう 夜を止めましょう」と、希望を見い出す内容となっている。そのため、この2曲はメドレー形式で歌われることが多かった。
A面曲の振り付けは、ローラースケートを履いたバージョンと、ダンスのみのバージョンがあった。
- Little Birthday c/w なななのなの時間割 (1990年5月17日)
-
B面曲はGENJIの5人だけの楽曲。 シングルビデオ版でのタイトル表記は『な・な・なのなの時間割』。
- CO CO RO c/w みつめていたい (1990年8月18日)
-
A面曲は紅白歌合戦出場曲。 元々は少年隊がリリースする予定の楽曲だった。 後にV6やジャニーズJr.もカバーした。
B面曲は作詞・作曲:大江千里で、フジテレビ『ひらけ!ポンキッキ』の挿入歌。
- 笑ってよ c/w 水彩画 (1990年11月3日)
- 風の中の少年 c/w TVの中のHERO (1991年2月7日)
-
『ミュージックステーション』で歌った際にSMAPがバックを務めた。
- 奇跡の女神 c/w もっと近づきたい (1991年4月26日)
- WINNING RUN c/w 熱帯夜 (1991年8月30日)
-
A面曲は当時のF1ブームを意識した曲で、紅白歌合戦出場曲。 B面曲は後にKinKi Kids、ジャニーズJr.がカバー。
- GROWING UP c/w 若さのゆくえ (1991年11月7日)
- TAKE OFF c/w 君にCheer Up! (1992年2月20日) A面曲の振り付け:西条満
- リラの咲くころバルセロナへ c/w I'LL BE BACK (1992年4月29日)
-
A面曲は紅白歌合戦出場曲。
ナショナルエアコン「エオリア」のCMソングであり、バルセロナ五輪の応援ソング。 別歌詞のニューエール・バージョンも存在。
なお、新潟のご当地アイドルグループ・RYUTistの楽曲『夏の魔法』のサビが、当A面曲のサビのパクリだと言われている。
- Meet Me c/w クレヨンで描いたタイムマシン (1992年8月20日)
-
A面曲の作詞曲はタケカワユキヒデ。 B面曲はSAY'Sの曲で、フジテレビ『ひらけ!ポンキッキ』の挿入歌。
- 愛してもいいですか c/w 夢で逢えるから (1992年11月6日)
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シングルのA面曲では初のバラード。
- 君とすばやくSLOWLY c/w サヨナラと言えなくて (1993年2月19日)
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A面曲はローラースケートを履かずに披露していた楽曲で、後にジャニーズJr.もカバー。 B面曲はSAY'Sの曲。
- 勇気100% c/w 微笑みをあずけて (1993年5月13日)
- BOYS in August c/w 恋する気持ち (1993年8月4日)
- この秋・・ひとりじゃない c/w きっと愛しあえる (1993年10月27日)
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限定盤と通常盤の2種で販売。
- BRAVO!Nippon 〜雪と氷のファンタジー〜 c/w 君は世界を夢見て (1994年1月20日)
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A面曲はリレハンメルオリンピック「がんばれ!ニッポン!」のキャンペーンソング。
後にジャニーズJr.もカバー。
- ヨーソロー!未来へよろしく c/w 僕らのREASON (1994年4月28日)
- TRY TO REMEMBER c/w LUNAR PARK-GO-ROUND (1994年7月21日)
シングル売上推移 (オリコン調べ)
ミニアルバム
- White Dreaming with 光GENJI (1990年11月21日。8cmCD。片方だけの靴下付き)
-
ジャケット写真は、センターが諸星ではなく敦啓になっている。
- ひと夏ひと夜 (1991年7月7日。8cmCD。花火柄&メンバーの名前入りの手ぬぐい付き)
アルバム
- 光GENJI (限定盤:1988年1月1日、通常盤:1月21日。それぞれジャケット違い)
-
初回限定盤の予約特典はカレンダー。
初回限定盤(通称:赤盤)は赤色の衣装、通常盤(通称:緑盤)は緑色の衣装を着たジャケットになっている。 - Hi! (1988年7月28日)
-
予約特典は「光GENJI ’88」のロゴ入りスタンプ。 更にカセット版にはフォトカードが2枚封入。
- Hey! Say! (限定盤:1989年2月20日、通常盤:4月7日。それぞれジャケット違い)
-
初回限定盤の予約特典はカレンダーだった。
初回限定盤はGENJIの5人が赤色の衣装、光の2人が青色の衣装になっており、通常版は光が赤、GENJIが青になっている。 - Hello…I Love You (1989年10月25日)
-
予約特典はレターセット。 更にカセット版にはフォトカードが2枚封入。 LPは黄色のクリア仕様のレコード。
- ふりかえってTomorrow (限定盤:1990年1月31日、通常盤:2月28日)
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限定盤には特典でカレンダーが付いた。 但しペラペラのポスターに日付けシールを自分で貼るという仕様のため、ファンには不評なカレンダーだった。
アナログLPレコードの販売は当アルバムが最後。
- Cool Summer (1990年7月25日)
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予約特典はA4クリアファイル。
- (333) Thank you (全10曲の限定盤:1991年3月3日、全12曲の通常盤:3月20日。それぞれジャケット違い)
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限定盤には特典で香港ロケのカレンダーが付いた。
- VICTORY (1991年10月2日)
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予約特典はレーシングステッカー。
- BEST FRIENDS (限定盤:1992年3月4日、通常盤:3月21日。それぞれジャケット違い。2枚組ベストアルバム)
-
限定盤には特典で「くるくるカレンダー」が付いていた。
『STAR LIGHT』から『GROWING UP』までの全シングルA面曲と、『荒野のメガロポリス』のB面曲『PLEASE』を収録。 『荒野のメガロポリス』は、シングル版ではカットされていた2番が挿入され、フルサイズで収録。 Disk2にはカラオケ音源を収録。 - Pocket Album 〜七つの星〜 (1992年7月1日。8cmCDが7枚入ったBOX仕様)
- DREAM PASSPORT (1992年12月3日)
-
初回限定盤のみ、8cmボーナスCDが付いた2枚組のBOX仕様になっている。
- SPEEDY AGE (限定盤:1993年3月3日、通常盤:3月19日。それぞれジャケット違い)
-
限定盤には特典でカレンダーが付いたが、1990年のアルバム『ふりかえってTomorrow』の時と同じく、ポスターに日付けシールを自分で貼る仕様だった。
- WELCOME (1993年9月15日)
-
一人一曲ずつプロデュースをした企画アルバム。
- 宇宙遊詠 (1993年12月8日)
-
ダミーヘッドで録音されたクリスマスアルバム。
- HEART'N HEARTS (限定盤:1994年3月2日、通常盤:3月17日。それぞれジャケット違い。2枚組)
-
初回限定盤はBOX仕様で、特典としてカレンダーも付いていた。
- FOREVER YOURS (1994年7月21日)
-
7人グループとして発表した最後のオリジナル・アルバム。
- SUPER BEST TRY to REMEMBER (1994年8月2日。3枚組のBOX仕様ベストアルバム)
解散後のアルバム
- MY これ!クション 光GENJI・BEST (2001年12月5日)
- 光GENJI All Songs Request (2枚組。2002年10月17日)
ファンからのリクエスト投票によって選曲された、全31曲。
その他のアルバム
- 光GENJI オリジナルカラオケ (1988年6月5日)
- 光GENJI オリジナルカラオケ・コレクション (1989年3月21日)
- マーチ・コレクション 〜リラの咲くころバルセロナへ〜 (1992年6月19日、運動会用BGM集)
- 忍たま乱太郎 オリジナル・サウンドトラック (1993年7月20日)
- 2001 classics 〜 光GENJI オーケストラ・ヴァージョン (1994年8月2日)
-
編曲:千住明。 演奏:チェコ・フィルハーモニー管弦楽団。
オムニバスアルバム
- 青春歌年鑑 ’87 BEST30 (2000年11月22日、2枚組) 『STAR LIGHT』を収録
- 青春歌年鑑 ’88 BEST30 (2000年11月22日、2枚組)
-
『カラスの十代』、『パラダイス銀河』、『Diamondハリケーン』、『剣の舞』を収録
- 青春歌年鑑 ’89 BEST30 (2000年11月22日、2枚組)
-
『地球をさがして』、『太陽がいっぱい』を収録
- 青春歌年鑑 ’90 BEST30 (2000年11月22日、2枚組)
-
『荒野のメガロポリス』、『CO CO RO』を収録
- 青春歌年鑑 ’91 BEST30 (2000年11月22日、2枚組) 『WINNING RUN』を収録
アルバム売上推移 (オリコン調べ)
ビデオ、DVD
- デビューシングル『STAR LIGHT』のミュージックビデオ (VHS:1987年、非売品)
-
シングルレコード『STAR LIGHT』の予約2大特典として、B2ポスター(予約者全員)と、抽選で2,000名にこのビデオテープが配布された。
- 太陽がいっぱい (VHS・Beta:1988年1月16日、DVD:2004年5月19日)
- 少年武道館 〜 少年御三家・新春一番歌いぞめ (VHS・Beta:1988年3月18日)
- 光GENJI ファーストライブ (VHS・Beta:1988年5月25日、DVD:2003年7月16日)
- あ・き・す・と・ぜ・ね・こ
-
(VHS。1988年7月発送。フジテレビ開局30周年&ニッポン放送開局35周年記念品。懸賞プレゼントのみの非売品。10万本限定のビデオに対し、250万通以上の応募があった)
- 少年武道館 U (VHS・Beta:1988年10月30日)
- TOKYO DOME CONCERT Hey! Say! 1.15・16 (VHS:1989年3月20日。90分)
-
バックダンサーはSMAP。 SMAPだけで歌唱した『Together Forever』も収録されている。
- 光GENJI GIFT 「太陽がいっぱい」 (VHS:1989年11月3日、税込3,000円)
-
シングル曲『太陽がいっぱい』のアニメビデオ(VHS)、オリジナル絵本『太陽がいっぱい』(作:花井愛子、絵:くすのせあつこ)、トランプ、ステッカーが入った4点セット。
- 虹色夏物語 (VHS:1990年9月21日、DVD:2003年7月16日)
- ウォルト・ディズニーワールド7日間の旅 (VHS:1991年1月1日)
- コンサートであおう! 〜 Yokohama Arena Spring Concert ’91
-
(VHS:1991年6月21日、DVD:2004年5月19日)
- 独逸旅情 〜 素顔になって (VHS:1992年7月17日、DVD:2003年7月16日)
- 7番目の夏 (VHS:1993年11月2日、DVD:2003年8月20日)
- ’93 WINTER CONCERT BRAVO! Nippon 〜at YOYOGI NATIONAL STADIUM〜
-
(VHS:1994年4月6日、DVD:2003年8月20日)
- ビジュアルレコード ジャニーズ・ワールド強力編 〜 光GENJIスペシャル (VHS:1994年4月10日、ローソン限定販売)
- ’94 SUMMER CONCERT FOREVER YOURS at OSAKA-JO HALL (VHS:1994年11月18日、DVD:2003年8月20日)
-
1994年夏の、大沢樹生、佐藤寛之の脱退コンサート最終日を、MC、アンコールを含めてほぼ完全収録した作品。
VHSの初回限定版は、特典としてSAY'SのMV集『SAY'S CLIPS』のVHSビデオが付いた2本組。
DVDには『SAY'S CLIPS』を特典映像として収録。
- P/S I Love You (VHS:1995年8月19日)
- Bye-Bye for Tomorrow. See You Again. P/S I Love You (VHS:1996年1月、FC限定販売)
ゲームソフト
- 光GENJI ローラーパニック
ファミリーコンピュータ ディスクシステム用ソフト。 ポニーキャニオン。 1989年3月20日発売。 定価:3,200円。 名刺サイズのフォトカード1枚封入。
ゲームとしてのクオリティは非常に低く、世間からも「クソゲー」との酷評を受けている作品。
GENJI
ビデオ
- な・な・なのなの時間割 (VHS、1990年6月21日。予約特典は赤いミニフリスビー)
-
※ CDシングル版でのタイトル表記は『なななのなの時間割』。
光GENJI SUPER 5
シングル
- Melody Five c/w JOYFUL RHAPSODY (1994年10月7日)
- DON'T MIND 涙 c/w SHAKING NIGHT (1994年10月21日)
-
両A面シングル。 両曲共、テレビアニメ『忍たま乱太郎』エンディングテーマ。
- Bye-Bye c/w レディーはそよかぜ (1995年8月2日)
アルバム
- Someone Special (限定盤:1995年3月1日、通常盤:3月17日。それぞれジャケット違い)
-
初回限定盤のみBOX仕様で卓上カレンダー付き。
- See You Again (1995年8月19日)
-
“卒業アルバム”と称して発売された完全限定盤3枚組アルバム。
「Original Disc」、「Concert Solo and Others Disc」、「Self Selection Disc」の3枚からなる。
事務所の先輩、後輩タレントからのメッセージ、メンバー秘蔵メモリアルスナップ、メンバーによる曲の解説などが付いているスペシャルラストアルバム。 10,194円。
ビデオ
- Bye-Bye for Tomorrow,See You Again, P/S I Love You
-
(1995年12月。ファンクラブ限定販売。収録時間:135分。定価:6,000円)
SAY'S
詳細はSAY'Sの項目を参照。
AKIRA & KOHJI
シングル
- MR.MIRACLE (1994年12月8日) オリコン最高15位
CD化されていない楽曲
※ 解散後のソロカバー曲も記載 (ただしジャニーズ在籍時に限る)
- 今、君と歌いたい
-
結成初期のGENJIによるTBS『全国歌謡選抜 サブロー・シローの歌え!ヤング大放送』のオープニングテーマ曲。 作詞:秋元康、作曲:井上堯之。
- Nowhere Fast (日本語訳版)
-
原曲はFIRE INC.。 元々は田原俊彦や少年隊が英語のままカバーしていた曲だったが、青木としおによる日本語訳版を男闘呼組が歌った。
但し一度テレビ番組にて、男闘呼組と少年隊のジョイントバージョンでの日本語訳版も披露された。
そして、少年御三家、光GENJI、木村拓哉も、それぞれコンサートでカバーした。
- JAILHOUSE ROCK (原曲はエルヴィス・プレスリー)
- WHAT I SAY (原曲はレイ・チャールズ)
- BLUE SUEAD SHOES (原曲はカール・ パーキンス)
- ジャクソンズ・メドレー (DON’T STOP TIL YOU GET ENOUGH / LOVELY ONE / THINGS I DO FOR YOU)
- 初恋 (原曲は田原俊彦。 内海ソロ)
- アフタースクール (原曲は田原俊彦)
- 哀しきハイスクール (原曲は近藤真彦。 山本ソロ)
- ごぶさたI Love You (原曲は田原俊彦)
- ひとりぼっちのバースデー (原曲は近藤真彦。 諸星ソロ)
- ジュリエットへの手紙 (原曲は田原俊彦。 赤坂ソロ)
- ザ・青春セイリング (原曲は田原俊彦)
- Lovesick Rain (原曲は田原俊彦)
- インディ・ジョーンズにはかなわない
- 月光に叱られて
- 哀しみのレスキュー
- どうもありがとう (初期のコンサートでエンディングに歌われていた曲)
- 危険なメロディ― (原曲は近藤真彦)
- 大塚化学「マイクロマジック」のCMソング 『チンチンポテト』 (GENJIの5名による楽曲。1988年)
-
作詞:中治信博、作曲:都志見隆。 後にメロディーラインを変えた別バージョンも同CMシリーズで流された。
- サクセス・ストリート (原曲は少年隊)
- 踊り子 (原曲はフォーリーブス)
- ブルドッグ (原曲はフォーリーブス)
- ライバルは二度ノックする (原曲は田原俊彦)
- 本気さBaby (原曲は近藤真彦。 内海ソロ、諸星ソロ)
- 7th Door 〜7つ目の扉〜 (結成7周年を記念して制作された曲)
- Shake Again (1994年春のコンサートで披露された曲)
- MY WAY (原曲はフランク・シナトラ。 諸星ソロ)
- MEGAMI-YO (原曲は田原俊彦の『女神よ』。 光GENJI、諸星和己&TOKIO、内海ソロの3パターンでカバー)
- 夏の終わりのハーモニー (原曲は井上陽水&玉置浩二)
- それは幻の海辺 (原曲は田原俊彦。 赤坂ソロ)
- MAMA UDONGO 〜まぶたの中に…〜 (原曲は久保田利伸。 山本ソロ)
- 思い出がいっぱい (原曲はH2O。 山本ソロ)
- 千年メドレー (原曲は林田健司。 内海ソロ、赤坂ソロ)
- Crazy Funky Down (原曲は林田健司。 内海ソロ)
- HOUSE OF LOVE (原曲はシャンプー。 敦啓ソロ)
- 他多数
書籍
著書
- 光GENJI全集 (メンバーそれぞれの自叙伝。全7巻。集英社)
- 諸星和己 - 『根性』 (1990年8月)
- 大沢樹生 - 『硬派』 (1990年9月)
- 赤坂晃 - 『自由』 (1990年10月)
- 佐藤寛之 - 『勇気』 (1990年11月)
- 山本淳一 - 『笑顔』 (1990年12月)
- 内海光司 - 『闘志』 (1991年1月)
- 佐藤敦啓 - 『少年』 (1991年2月)
写真集
- Duet特別編集 光GENJIファースト写真集 (1988年12月13日、集英社)
- 光GENJI 先生のいないホームルーム 〜 光GENJI あきすとぜねこプロジェクト編
-
(1989年7月、扶桑社)
- ジャニーズマガジン特別編集 光GENJI IN HAWAII 僕たちの夏休み
-
(ファンクラブやコンサート会場限定発売。 1991年8月。 J-STATION)
- 光GENJI 超写真集
-
光GENJIデビュー4周年記念企画として発売された、BOX入りの個人写真集7冊セット。
定価:4,800円。 1991年8月、集英社。
- 大沢樹生 - 熱海
- 内海光司 - 浅草
- 諸星和己 - 富士
- 佐藤寛之 - 軽井沢
- 山本淳一 - 高尾
- 赤坂晃 - 枝幸
- 佐藤敦啓 - 湘南
- ジャニーズマガジン特別編集 光GENJI ルネサンス 僕たちの課外授業 ITALY
-
(ファンクラブやコンサート会場限定発売。 1992年7月。 J-STATION)
- ジャニーズマガジン特別編集 光GENJI 7周年記念 「7×7」
-
(ファンクラブやコンサート会場限定発売。 1993年7月。 J-STATION)
- ジャニーズマガジン特別編集 1994・今…
-
(ファンクラブやコンサート会場限定発売。 1994年8月。 J-STATION)
- JOHNNY'S VISUAL SENSATION (1995年1月23日、オリコン)
-
「光GENJI SUPER 5」として掲載。
- HIKARU GENJI Graduation 〜 Johnny's Magazine special edition
-
ファンクラブやコンサート会場限定発売。写真集2冊と、光GENJI7人の衣装の布の切れ端が入ったBOXタイプ。 定価:6,000円。 1995年8月。 J-STATION。
フリーペーパー
- あ・き・す・と・ぜ・ね・こ新聞
-
1988年8月から1989年5月にかけ、フジサンケイハートサークルから、月2回(第1・3土曜)、各90万部ずつ発行。
全国のレコードショップなどで配布された。
1988年8月6日号から1989年5月20日号までの、全19号 (1989年1月7日号は、2号分の合併号)。 1988年9月3日号には後輩グループのSMAPも掲載された。 なお、1989年2月4日号では、日付が「1988年2月4日」と誤植されている。
光GENJIをモデルにした少女漫画
- theにがおショー! (カトリーヌあやこ 著。1987年 - 1989年。全5巻。集英社)
- theにがおショー!スペシャル カトリーヌあやこランド (カトリーヌあやこ 著。1990年6月1日号。集英社)
-
雑誌『SEVENTEEN』の特別編集として出版された、全編書き下ろしの漫画ムック。
- theにがおショー! new (カトリーヌあやこ 著。1992年。全1巻。集英社)
- theにがおショー!スペシャル カトリーヌあやこランド (カトリーヌあやこ 著。1990年6月1日号。集英社)
- スターまんが 光GENJIストーリー (伊藤かこ 著。『小学六年生』1988年1月 - 2月号。小学館)
- 光GENJI物語 (横山ゆきね 著。『小学三年生』1988年3月号。小学館)
- ベジタブル・ジュースに乾杯! ヒーローたちの夢伝説 (おちあいエミ 著。『月刊明星』1988年5月 - 6月号。集英社)
- スターまんが 光GENJIストーリー (横山ゆきね 著。『小学六年生』1988年10月号。小学館)
- スターまんが 光GENJI 小五のころのひ・み・つ物語 (さかたのり子 著。『小学五年生』1988年11月号。小学館)
- 走れ! GENKI学園 (かずはしとも 著。1988年10月。全1巻。講談社)
- 光GENJI物語 (高瀬直子 著。『小学二年生』1989年7月号。小学館)
- 光GENJIに夢中 (麻美理乃 著。1989年。全3巻。集英社)
- はじめちゃんが一番! (渡辺多恵子 著。1989年 - 1995年。全15巻。文庫版は全10巻。小学館)
- 太陽がいっぱい (作:花井愛子、絵:くすのせあつこ。1989年11月3日)
-
シングル曲『太陽がいっぱい』のアニメビデオ(VHS)、トランプ、ステッカーと同封の4点セットの商品『光GENJI GIFT 「太陽がいっぱい」』(税込3,000円)として販売された絵本。
受賞歴
- 日本レコード大賞
- 1988年 第30回 - 大賞、金賞 (パラダイス銀河)
- 1989年 第31回 - 金賞 (太陽がいっぱい)
- ゴールデン・アロー賞
- 1987年度 第25回 - 最優秀新人賞、新人賞 (音楽)
- 1988年度 第26回 - 話題賞
- FNS歌謡祭音楽大賞
- 1987年 第16回 - 特別賞 (STAR LIGHT)
- 1989年 第18回 - グランプリ (太陽がいっぱい)
- 第1回 明星ヤングソング大賞 - シングルレコード部門・準グランプリ (STAR LIGHT、1988年2月6日)
- 第15回 全日本歌謡音楽祭 - ゴールデングランプリ (太陽がいっぱい、1989年)
- 第20回 日本歌謡大賞 - 大賞 (太陽がいっぱい、1989年)
- 第15回 日本テレビ音楽祭 - グランプリ (太陽がいっぱい、1989年)
- 日本ゴールドディスク大賞
- 1987年度 第2回 日本ゴールドディスク大賞 (1988年3月15日)
-
The Grand Prix New Artist of the Year、 The Best New Artist of the Year
- 1987年度 第2回 日本ゴールドディスク大賞
-
The Grand Prix Single of the Year - 「ガラスの十代」
- 1987年度 第2回 日本ゴールドディスク大賞
-
The Best Single of the Year - 「ガラスの十代」、「STAR LIGHT」
- 1987年度 第2回 日本ゴールドディスク大賞
-
The Best Album of the Year ヤングアイドル(グループ)部門 - 「光GENJI」
- 1988年度 第3回 日本ゴールドディスク大賞 The Best 5 Artist of the Year
- 1988年度 第3回 日本ゴールドディスク大賞
-
The Grand Prix Single of the Year - 「パラダイス銀河」
- 1988年度 第3回 日本ゴールドディスク大賞
-
The Best 5 Single of the Year - 「パラダイス銀河」、「Diamondハリケーン」、「剣の舞」
- 1988年度 第3回 日本ゴールドディスク大賞
-
The Best Album of the Year ヤングアイドル(グループ)部門 - 「Hi!」
- 1989年度 第4回 日本ゴールドディスク大賞
-
The Best 5 Single of the Year - 「太陽がいっぱい」
- 1990年度 第5回 日本ゴールドディスク大賞
-
アルバム賞アイドル部門(男性) - 「ふりかえって…Tomorrow」
- 1991年度 第6回 日本ゴールドディスク大賞
-
アルバム賞アイドル部門(男性) - 「Thank you (333)」
- 1992年度 第7回 日本ゴールドディスク大賞
-
アルバム賞アイドル部門(男性) - 「BEST FRIENDS」
- 1987年度 第2回 日本ゴールドディスク大賞 (1988年3月15日)
- 日本レコードセールス大賞 (1988年、オリコン年間ランキング)
パロディ
- 紫SHIKIBU (この名称を使ったグループは複数存在した)
- 大阪に存在した光GENJI応援グループ (親衛隊)。 日本最大規模を誇った。
- ロックバンド「氣志團」のバックダンサーを務めるダンスグループ。
- 鈴木信也の漫画作品「Mr.FULLSWING」に登場する架空のアイドルグループ。
- テレビ朝日のバラエティ番組『パパパパパフィー』の企画内で結成されたインラインスケートホッケーチーム。
- 吉本興業所属のお笑い芸人6名からなる竹馬アイドルユニット。
- 紫 (子持ち組)
- みっくん - 宮迫博之 (雨上がり決死隊)。通称:緑の稲妻。
- リーゴ - ゴリ (ガレッジセール)。通称:赤い竜巻。
- しゃっくん - 田中直樹 (ココリコ)。通称:黄色いペガサス。
- SHIKIBU (子なし組)
- なっくん - 世界のナベアツ (ジャリズム) - リーダー。通称:青い月光。
- ほとちゃん - 蛍原徹 (雨上がり決死隊)。通称:桃色のフルーツ。
- ヤマペー - 山下しげのり (ジャリズム)。山下だけ遅れて参加したため、通称は無し。イメージカラーはオレンジ。
- 紫 (子持ち組)
- 光ケンヂ
-
伊集院光と大槻ケンヂが、光GENJIのパロディとして名乗ったユニット。
1989年3月29日に、ラジオ番組『伊集院光のオールナイトニッポン』と『大槻ケンヂのオールナイトニッポン』が連動し、『ボヨヨン・フェスタ ’89 in 銀スタ』をニッポン放送・銀河スタジオから4時間生放送した。 その際、ジングルにて「光ケンヂのオールナイトニッポン!」とタイトルコールをしていた。 これにより、遊び心が理解できなかった光GENJIファンの少女たちからの抗議が殺到した。
なお、オールナイトニッポンのファンだった漫画家の秋本治も、自身の作品『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の第67巻・第6話にて、刑事・星 逃田 によって散乱した本の表紙に、「光ケンヂ」の名前を書いてネタにしている。
- 新・光GENJI (後のSHADOW。1989年〜1990年)
- 夜叉
-
やしゃ、Yacha。 1990年代初頭に活動していた韓国の男性5人組のアイドルグループ。
光GENJIを基準にして結成され、ローラースケートを履いて踊るコンセプトも模倣された。
- 北京ゲンジ (無法松、お宮の松によるお笑いコンビ。 1994年4月結成、2005年解散)
- 羽賀ゲンジ
-
羽賀研二と光GENJIを掛け合わせたネーミングで、1995年当時、ビートたけしが諸星和己に与えようとしていた芸名の内の一つ。
詳細はこちらを参照。
- 微熱DANJI
-
錦織純平、星屑輝矢、二階堂腱ヂによるアイドルグループ。
氣志團のバックダンスグループ「
網走J.Jr 」の5名の内、3名によって2004年に結成。
- ほたるゲンジ (無法松、桐畑トールによるお笑いコンビ。 2005年結成)
- 光SHINJI (諸星和己と武田真治率いる企画ユニット。2006年2月)
- 超新星
-
2007年9月にデビューした韓国の男性ダンスボーカルグループ。
2018年6月より「SUPERNOVA」に改名。
光GENJIのパロディグループではないが、光GENJIのデビュー時のキャッチフレーズ「超新星からのメッセージ」とリンクしているため、一応記載。
- 南明奈のスーパーマイルドセブン
-
2009年1月にフジテレビ『クイズ!ヘキサゴンU』内で、南明奈をリーダー&メインボーカルとして結成された、ローラーブレードに乗ったアイドルユニット。
他のメンバーは、崎本大海、波田陽区、FUJIWARA (藤本敏史、原西孝幸)、小島よしお、クリス松村で、それぞれにイメージカラーもあった。 同年6月17日にCDデビュー。
- SHICHIHON槍
-
しちほんやり。 2010年4月〜7月にテレビ神奈川の歴史バラエティ番組『戦国鍋TV 〜なんとなく歴史が学べる映像〜』内のコーナー「MUSIC TONIGHT」に登場。
豊臣秀吉プロデュースという設定の男性アイドルユニット。 オリジナル曲は『シズガタケの七本槍』。
- メンバー
- 福島正則 - 相葉弘樹
- 加藤清正 - 平方元基
- 加藤嘉明 - 村井良大
- 脇坂安治 - 五十嵐麻朝
- 平野長泰 - 矢崎広
- 糟屋武則 - 氏家拓朗
- 片桐且元 - 中村龍介
また、同番組からはたのきんトリオのパロディ「ホトきんトリオ」と、少年隊のパロディ「天草四郎と島原DE乱れ隊」も登場している。
- メンバー
- 叱るGENJI
-
しかるゲンジ。 バラエティ番組『お説教アイドル 叱るGENJI』(2011年4月8日 - 2014年9月19日、朝日放送)、および『叱るJr.』(2011年4月8日 - 2014年9月26日、朝日放送)に出演していた“お説教アイドル”。
衣装は光GENJIの『パラダイス銀河』のピンク色の衣装や、『ガラスの十代』のデニムの上下を模倣。
所属事務所はジャニーズ事務所ならぬ、「シャイニーズ事務所」という設定。
- メンバー
- ザーくん - 山崎弘也 (アンタッチャブル)
- ケンくん - 矢作兼 (おぎやはぎ)
- オギさん - 小木博明 (おぎやはぎ)
- 叱るGENJIセピア
-
叱るGENJIの後輩アイドル。ネーミングは「光GENJI」と「一世風靡セピア」がかけられている。
「叱りメール」、「真夜中のお叱り情報!」のコーナーに出演。叱るGENJIと直接の共演は無い。
衣装は少年隊の『仮面舞踏会』のシルバーの衣装を模倣。
- KANEKIYO - かねきよ勝則 (新宿カウボーイ)
- SUKEKICHI - 末吉くん
- SAGANE - さがね正裕 (X-GUN)
- LEE V - リー5世
- 岩井ジョニ男 (イワイガワ)
- IJIRI - イジリー岡田
- KANATA - 海原はるか・かなた
- 石沢勤 (新宿カウボーイ)
- 安田大サーカス
- 桂三輝
- ヨネスケ
- GACHIMATSU - ??
- SHINJI - 畑中真治 (番組ディレクター)
- 怒るGENJI
-
いかるゲンジ。 叱るGENJIの偽者。 第10回に登場。
- ニーヤン - 西尾季隆 (X-GUN)
- サーくん - さがね正裕 (X-GUN)
- メンバー
- Spindle
-
スピンドル。 日本初のローラースケート女性アイドルグループ。
2015年に結成。
1年をかけたローラースケートとダンスのレッスンを経て、2016年10月より活動開始。
所属事務所は「マネージメントS」。
[1]
なお、メンバーの1人、籾山ひめりは、2017年12月より大型アイドルユニット「ラストアイドル」にも加入したため、2019年11月24日にSpindleを脱退した。
- 諸星和己 with 光GEININ
-
もろほし かずみ・ウィズ・ひかるげいにん。
2017年8月5日に千葉・幕張メッセ駐車場(メッセサイド席)にて開催されたイベント「オモロック2017」の音楽ライブコーナーに登場したスペシャルユニット。
メンバーは諸星和己、ジャングルポケット(おたけ、太田博久の2名)、ジャルジャル(後藤淳平、福徳秀介)、コロコロチキチキペッパーズ(ナダル、西野創人)の7名。
最初に諸星がローラースケートを履いてソロで『パラダイス銀河』と『勇気100%』を歌った後、他のメンバー6名もローラースケートを履いて一緒に『ガラスの十代』と『パラダイス銀河』を歌った。
- 悲観現実
-
ひかんげんじつ。 ニッポン放送のラジオ番組『徳光和夫 とくモリ!歌謡サタデー』の2019年4月20日放送分に諸星和己がゲスト出演するのに合わせ、同番組内の競馬予想コーナー「勝負一発!徳さんの夢プレゼント」の、同日限定のオープニングテーマ『ハズスの七十代』(『ガラスの十代』の替え歌)を歌うために結成されたユニット。
メンバーはラジオスタッフの男性たちで、コンセプトは、「“かーくん”こと、徳光和夫の競馬予想がサッパリ当たらない現実を悲観しているスタッフの面々で結成されたアイドルグループ」。
替え歌の『ハズスの七十代』は、「戸惑う 気持ちで 行ったり 来たりさ マークシートを〜♪ ハズレそうな馬ばかり 選んでしまうよ〜♪」などの歌詞で歌われた。
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