メリー喜多川
メリー喜多川(メリー きたがわ、Mary Y. Kitagawa、本名:藤島メリー泰子 〔ふじしま メリー やすこ〕、旧本名:喜多川メリー泰子、アメリカ時代の本名:メアリー ヤスコ キタガワ 〔Mary Yasuko Kitagawa〕、1926年〔大正15年/昭和元年〕12月25日 - )は、日本の実業家、芸能プロモーター。
ジャニーズ事務所の名誉会長。 旧取締役副社長 → 旧代表取締役会長。
ロサンゼルス生まれの日系二世 (両親共に日本人)。 弟はジャニーズ事務所の旧代表取締役社長・ジャニー喜多川。
亡き夫は藤島泰輔。
一人娘は藤島ジュリー景子。
元・担当秘書は伊豆喜久江 (2016年2月に退社)。
「メリー」というミドルネームの由来は、クリスマスの日に生まれたことから、「Merry」→「Mary」で名付けられた。
来歴
- メリー喜多川の父親は、僧侶の喜多川諦道 (きたがわ たいどう)。 1896年(明治29年)、大分県生まれ。 高野山大学卒業。 以下の5枚は全て諦道の写真。
右は諦道の妻・江以
諦道は8歳で稚児(少年修行僧)として得度(出家)し、やがて和歌山県高野山の導師となる。 放蕩三昧で、自ら「やくざ」や「遊び人」と称する異色の坊主だった。-
(「諦道は高校時代に野球で甲子園に出場した」と書かれた文献が存在するが、これは誤報。
そもそも諦道の高校(当時は旧制中学校)時代には、高校野球も甲子園もまだ存在すらしていない。
全国高等学校野球選手権大会の開始は1915年 〔当時の名称は全国中等学校優勝野球大会〕。 阪神甲子園球場の完成は1924年)
諦道の師の僧正が大隈重信や後藤新平らと親しくしていたことから、諦道も海外への思いを強めるようになり、諦道を可愛がっていた和歌山市の有力者・大谷家(息子の大谷貴義〔1905年5月31日 - 1991年5月17日〕は宝石商として財を成し、児玉誉士夫と並んで「戦後最大のフィクサー」と呼ばれた人物で、元首相の福田赳夫のパトロンでもあった)からの援助を受け、諦道は真言密教の布教のために1924年(大正13年)2月より世界一周の旅に出発した (当時27歳)。 大谷家との繋がりは、元々、諦道の父母が大谷家で世話になっていたことがきっかけであった。
そして同2月、ロサンゼルスのリトル・トーキョーのサウス・セントラル・アベニューにあった「高野山真言宗 高野山米国別院」(愛媛県人1世らが大半の発起人となって1912年〔大正元年〕11月24日発足)の大使教会に到着。
ここではほんの2〜3ヶ月だけ助法し、また世界一周旅行を続けるつもりだったが、当時の主監(最高責任者)が急に帰国することになったため、急遽、諦道が第三代主監となる。 以後、1933年までの9年間、米国大使教会の運営を務めた。
(ネット上では諦道が居た場所を、同じリトル・トーキョーの「真宗大谷派 東本願寺ロサンゼルス別院」とする記述も多数あるが、それは誤り)
諦道は活発な布教活動に精を出し、ロスの日系人社会の顔役となる。 ハリウッドのランドマーク「グリフィス天文台」の麓に居を構え、大阪に居た妻・江以(えい。通名:栄子)も呼び寄せた。 そして生まれたのが、泰子(メリー喜多川)、真一(まさかず。愛称:マー坊)、そして擴(ひろむ。ジャニー喜多川。愛称:ヒー坊)の三姉弟だった。
諦道は毎週金曜日に寺院で婦人会を集めた料理教室を開いたり、日曜日にはサンデースクールとボーイスカウトも始めた。 ボーイスカウトは第79隊 (後に第379隊に改称) で、日系人少年33人で1931年に結成。(正式発足日は1932年2月7日。 この79隊は、世界恐慌当時の反日の偏見に対し、日系人の子どもたちに自信をつけさせた他、1934年2月11日にはフランクリン・ルーズベルト大統領から表彰され、「ルーズベルト大統領賞」を受賞した)
また、メリーの母・江以は日本舞踊の名取だったため、婦人会では日舞や踊りの練習、発表会が頻繁に行われていたので、諦道は婦人会の力を借り、違う宗派も集めた盆踊り大会を開催した。 (この盆踊り大会は、1934年より、リトルトーキョーで毎年8月に行われるフェスティバル「二世週日本祭 (にせいしゅうにほんまつり)」へと発展していった)
- 当時はまだ日米開戦前だったため、喜多川一家は日系移民の強制収容所に送られることもなく、1933年7月26日、サンフランシスコ港から貨客船「秩父丸」に乗って横浜港に到着し、大阪に移り住んだ。
(ネット上ではジャニーやメリーがアメリカで強制収容所に収容されていたとする記事が多数存在するが、これも誤報)
諦道は道頓堀にある高野山真言宗の寺「法案寺」の住職の世話で、後にプロ野球チーム「ゴールドスター」のオーナーとなる、橋本三郎の下で働くようになった。
翌1934年、母・江以が京都で逝去。 以来、メリーが2人の弟の母親代わりとなった。
- 第二次世界大戦が始まり、1942年、父・諦道だけが大阪に残り、三姉弟は、和歌山市の有力者・大谷家が和歌山県東牟婁郡勝浦町(後の那智勝浦町)に持っていた島「中ノ島」の南紀勝浦温泉に身を寄せて疎開した。
やがてメリーは、近所の料理旅館の娘で2歳年上の歌劇女優・高橋純子を通じて、「OSK (大阪松竹歌劇団。後の「OSK日本歌劇団」)」の劇場に顔を出すようになる。 (高橋純子は、後に「名和プロダクション」の初代社長・名和太郎夫人、そして同プロダクションの二代目社長になった人物)
メリーの物怖じせずに懐に入り込む性格は、同劇団の娘役スター・京マチ子にも気に入られ、大変可愛がられた。 また、戦時中に国内外の軍需工場に慰問活動を行っていた流行歌手・松平晃の前唄をしていた森光子とも、この時点で知り合っている。 メリーは英語が堪能だったことから、戦後に劇団が駐留米軍で慰問公演を行う際には司会者として同行した。
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(一方、三姉弟と離れて大阪で暮らしていた父・諦道は、橋本三郎が1946年2月に大阪で創設したプロ野球チーム「ゴールドスター (翌1947年に「金星スターズ」に改称)」のマネージャーを、1948年2月まで2年間務めていた。
その後、諦道は橋本三郎の親族が経営する心斎橋の煎餅屋「杵萬」に居候するようになり、やがて昭和40年代にそのまま「杵萬」で逝去。 葬儀は大阪の三津寺で盛大に執り行われ、僧侶も多数参列したが、ジャニーやメリーが姿を見せることは無かった。 墓は高野山に建立。
なお、「寿」の字が書かれた諦道の書(掛け軸)が、京都府長岡京市「楊谷寺 (通称:柳谷観音)」の上書院の2階の床の間に飾られている)
(左側の文字は「高野山前官大僧正諦道」。 そして左下の落款印が右読みで「諦道」)
- 1947年3月にジャニーが旧制中学校を卒業すると、三姉弟は「市民権(米国籍)が無くなってしまうから」との理由で、横浜港からLST(米軍の軍用船)に乗って渡米し、再びロスに移り住む。
そしてメリーはロサンゼルス市立短期大学 (Los Angeles City College) [1]に進学したが、米国での学園生活に馴染めず中退 (ネット上の卒業説は誤報)。
弟のジャニーは、ロスの高校、そしてメリーと同じロス市立短期大学を卒業した。
優秀だったマー坊はUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)を卒業し、宇宙船関連の航空機メーカー「ノースアメリカン・ロックウェル・コーポレーション」のエンジニアとなった。
ジャニーとメリーはハウスボーイ(家政婦業)をして生計を立てていた。
また、三姉弟は有名な日系写真家・宮武東洋(1895年 - 1979年、香川県出身)がロスのリトル・トーキョーで経営していた写真館を手伝ったりもしていた。
この他、メリーはハーバーシティの日本語学校で教えていたこともあった。
- 1952年、アメリカ国籍だったジャニーとマー坊には兵役義務があり、当時勃発していた朝鮮戦争に徴兵される。
マー坊はパラシュート部隊で優秀と認められ、幹部付きの当番兵となった。
ジャニーは、韓国の戦災孤児に英語を教える任を命ぜられ、広島県江田島市の海軍兵学校跡地を使用した米軍の学校「江田島学校」(1955年一杯まで米軍および英連邦軍などが使用)で朝鮮語を習得するため、1952年にアメリカ陸軍犯罪捜査司令部(CID)の情報員(通訳の助手)という肩書きで再来日する。
そして僅か10ヶ月で朝鮮語をマスターし、韓国の板門店 (発音:パンムンジョム、日本語読み:はんもんてん) に出向いて、1年2ヶ月間に渡って子供たちに英語を教えた。
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(朝鮮戦争後のマー坊は、ロサンゼルスのガーデナに住みながら、前出のノース社でNASA関連の仕事をし、アポロの設計にも携わったが、1985年、くも膜下出血で倒れる。
メリーが日本に連れ帰り、大阪の病院に入院させるも、50代半ばで逝去した。 なお、日本人女性の妻との間には娘をもうけている)
- 1956年、京マチ子が映画『八月十五夜の茶屋』に主演するためにアメリカへやって来た際、メリーが付き人を務めた。
- ジャニーの再来日から遅れること5年、メリーも1957年に再来日。
ホステスなどを経て、1950年代後半より、作曲家・服部良一の妻と共に、四谷三丁目の円通寺坂入口右手の角(四谷3-1-3)にてカウンターバー『スポット』の経営を始める。
ワシントンハイツに住んでいたジャニーがPX(駐留軍ストア)から仕入れてくるウイスキーやバーボンを気軽に楽しめる店として人気を博し、常連客には、力道山、映画プロデューサーの藤本真澄、政財界のお偉いさんなどが居た。
- 弟のジャニーが1964年6月に芸能事務所「ジャニーズ事務所」を興すと、メリーもバーを閉店して事務所の経理を担当するようになった。
また、ジャニーズのマネージャーや、フォーリーブスのスタイリストなども受け持った。
以来、タレントの扱いやショーのプロデュースをする弟のジャニー社長に代わり、自らは副社長という立場で会社経営の全般を取り仕切るようになった。
- 1966年7月20日、かつて経営していたカウンターバー『スポット』の馴染み客だった6歳年下の作家・藤島泰輔との間に一女(藤島ジュリー景子)をもうける。
ただ、藤島には当時妻が居たため、その不倫問題をマスコミに報じられたりもした(『週刊新潮』1974年9月5日号、他)。
藤島は長かった夫婦別居生活の末、1972年に前妻・朋子(高浜虚子の孫娘)と正式離婚。 その後、メリーと再婚し、作家仲間の間ではおしどり夫婦として知られた。
- 2019年9月27日、ジャニーズ事務所の代表取締役会長に就任。
- 父・諦道も眠る和歌山県北部の高野山に、2019年9月に弟・ジャニーの墓を建立した際、そのすぐ左隣にメリーの生前墓も建立。
- 2020年9月4日、ジャニーズ事務所の名誉会長に就任。 これに伴い、代表取締役会長を退任し、代表権は無くなった。
人物
- 子供の頃の愛称は「ヤッちゃん」。
- 郷ひろみ、 豊川誕、 ひかる一平の3名の芸名は、メリーが命名した。
- 大食漢で酒豪。 肉食で野菜はほとんど食べない。 嫌いな食べ物は魚。
- 好きなブランド - エルメス、シャネル
- 非常に気が強い性格。 亡き夫の藤島泰輔は、かつてメリーのことを、「瞬間湯沸し器型の感情の激しい人だが、実に“女”である」と評している。
- 風水、四柱推命に凝っている。
- ジャニーズ事務所においては、メリーが経営権を握っている。
取り引きや接待などの上手さに定評があり、メリーが白と言えば黒も白になってしまう程、芸能界に対して多大な影響力を持っている。
政財界にも大きな人脈を持っており、中曽根康弘、橋本龍太郎、氏家齊一郎などと親交が深い。 また、俳優の高倉健とも親しい仲にある。
この他、森光子とは、かつて年に1回のペースでヨーロッパ旅行を楽しんでいた。 1回の旅行で2人で3,000万円ほどかけて豪遊し、その費用のほとんどをメリーが持っていた。 橋田壽賀子、石井ふく子、和田アキ子、竹内まりや、女優の泉ピン子、大地真央、黒木瞳、工藤静香なども、プライベートで親交が深い。 なお、和田アキ子はメリーのことを「メイ子」、ジャニー喜多川のことを「ジャニ子」という愛称で呼んでいる。
- ジャニーズのタレントが舞台上で素早く衣装を変える“早着替え”に使われる「早変わり衣装」の実用新案を、1976年に出願している。
- “芸能の神”を祀ることで知られる「豊川稲荷東京別院」を古くから贔屓、信奉しており、その「豊川稲荷」の名から引用して、豊川誕に芸名を命名した。
1997年にKinKi KidsがCDデビューの記者会見を行った際も、豊川稲荷が会場に選ばれた。
また、大晦日から元旦にかけて行われる「ジャニーズカウントダウンライブ」を終えた所属タレントたちを、そのまま豊川稲荷へ毎年初詣に行かせている。
- 事務所を円満に退所しなかった者に対し、徹底的に容赦しない面がある。
1994年春、光GENJIのメンバーが7人揃って、メリーの自宅にアポ無しで突然訪問し、解散したい旨を直訴してきた。 何とかメンバーを説得した結果、大沢樹生・佐藤寛之の2名だけの脱退ということに抑えたが、この脱退劇を良く思わないメリーは、1994年夏に大沢・寛之が出演した最後のコンサートツアーにおいて、2人の出番をほとんど無くしてしまっている。
また、1996年にオートレース選手に挑戦するため、事務所と喧嘩別れする形でSMAPを脱退した森且行についても、「森などという人間は最初から(SMAPに)存在しない!」と強烈なコメントを自ら発表し、テレビ局などのマスコミ各社に森の映像を流さない様に圧力をかけている。(詳細は森且行の項を参照)
こういった姿勢は昔からで、1981年に日本劇場の閉館公演「サヨナラ日劇」が行われた際、かつて「日劇ウエスタンカーニバル」シリーズで長年に渡り活躍したフォーリーブスも、再集結して出演させたいと検討していた日劇の支配人に対し、「死んだ子たちを蘇らせてなんになるのよ! 生きてる連中でやりましょう!」と言い、フォーリーブスの再集結案を中止させている。
なお、メリーもジャニーも、ジャニーズOBたちの冠婚葬祭にも一切出席せず、花輪を出すこともない。
- 2011年、中華人民共和国の温家宝国務院総理の要請で実現した北京公演のために訪中したSMAPが、人民大会堂で対日外交担当者の唐家璇 (とう かせん) と会見した際には、飯島三智とともにメリーも立ち会った。
- 2015年時点でのメリーの愛車は、エンジ色のマイバッハ。内装は総革張りの超豪華仕様で、推定価格は一億円以上と見られている。 その前に乗っていた愛車はベントレー。
- 2016年に「SMAP解散騒動」が巻き起こった際、その元凶であるメリーに対し、同年8月、SMAPの女性ファンと思われる人物によって、夜遅くにメリーの自宅マンションのエントランス付近の床に、人糞を撒き散らされる被害に遭う。(同年8月26日付のビジネスジャーナルより)
- 2016年12月27日付の東京スポーツにて、国民的グループのSMAPを空中分解させた元凶として、同紙が主催する「ゲス・オブ・ザ・イヤー 2016」の第1位にメリーが選定された。
出演
映画
- TOSHI in TAKARAZUKA Love Forever (1983年8月4日、東宝)
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田原俊彦のコンサートリハーサルのシーンで、弟のジャニー喜多川と共に映り込んでいる。
コンサート
- フォーリーブス解散コンサート (1978年8月31日、東京厚生年金会館)
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このコンサートでメリーもステージに登壇し、「これから頑張っていこうね」と言いながらフォーリーブスのメンバーたちと抱き合って泣いた。
参考文献
- 女性自身 (1976年5月6日号、光文社) インタビュー記事
- ヤングレディ (1978年2月14日号、講談社) インタビュー記事
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「豊川誕、また1人のアイドル歌手が消える!? その裏の事情」
- 週刊平凡 (1978年4月27日号、平凡出版) 顔写真付きのインタビュー記事
-
「豊川誕、再起に重大障害! 前代未聞、芸名が使えない」
- 週刊現代 (1981年4月30日号、講談社)
-
「『たのきんトリオ』で大当たり アイドル育成で評判の喜多川姉弟の異能」 (インタビュー記事。文:元木昌彦)
- 週刊文春 (1981年5月、文藝春秋) 「大講談社を震え上がらせたメリー喜多川の“たのきん”操縦術」
- Free (1983年11月号、平凡社) 残間里江子によるロングインタビュー「たのきんのビッグ・ママ」
- 週刊文春 (2015年1月29日号、文藝春秋) 5時間に及ぶインタビュー取材
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同インタビューは『SMAP 週刊文春記者が見たSMAP解散の瞬間』(鈴木竜太 著、2016年12月、文藝春秋・文春ムック)にも完全収録された。
- 週刊新潮 (2016年1月28日号、新潮社) 100分間に及ぶインタビュー取材
- 週刊文春 (2016年9月1日号、文藝春秋) インタビュー記事
-
「SMAPを潰したメリーと工藤静香 メリー独白 未公開部分 “飯島 あんたは社員、ジュリーは私の娘”」
脚注
- ^ ディプロマミルとされる方の「ロサンゼルス市立大学 (City University Los Angeles)」とは異なる。
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