ジャニーズ事務所 歴代所属者
当項目では、これまでにジャニーズ事務所に所属した歴代の人物を取り上げる。
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なお、現在ジャニーズ事務所に所属するタレントやグループについては「ジャニーズ事務所 現所属者」、
歴代のグループの一覧ページは「ジャニーズ事務所 歴代グループ」、
ジャニーズJr.内の現役グループについては「ジャニーズJr. 現役グループ」、
ジャニーズJr.内の解散したグループは「ジャニーズJr. 解散グループ」、
ジャニーズJr.の個人名の五十音検索は「ジャニーズJr.一覧」、
バックバンドグループは「ジャニーズ関連バックバンド」、
その他関連グループは「ジャニーズ関連企画ユニット」 ・ 「ジャニーズ関連プライベートユニット」 ・ 「各ファミリー、総称、構想、俗称ユニット」 ・ 「ジャニーズ関連OBユニット」の項目をそれぞれ参照。
ソロタレント
ジャニーズ事務所において、男性の内、
・ 最初からソロでレコードデビューした者
・ グループの “解散後” や “脱退後” にソロでレコードをリリースした者 (つまりグループ在籍時のソロリリースは除外)
・ ソロタレントとしての扱いを受けた者
を記す。 女性タレントについては こちら を参照。
但し、グループの活動休止中にソロ活動を行ったとしても、グループが解散していない以上は、ソロタレントとは捉えません。
また、グループを脱退した者が事務所を退所するまでにしばらく期間が空いたとしても、その間に芸能活動を何もしなかったのであれば、やはりソロタレントとは捉えません (例:渋谷すばる、錦戸亮)。
そして、ジャニーズ事務所の公式サイト「Johnny's net」が出来てからは、ジャニーズJr.がソロタレントに昇格したかどうかの判断は、Johnny's netにそのタレントの単独ページが開設されるか、Jr.からの卒業を事務所が正式に告知した場合に、「Jr.を正式に卒業」と当サイトでは見なしております。
ジャニーズ事務所からのデビュー順
- 中谷良 (「ジャニーズ」解散後、1974年の夏から1年ほどジャニーズ事務所にソロで復帰)
- 嶺のぼる (1966年の日劇ウエスタン・カーニバルにソロ名義で出演。 元「スクール三人組」のメンバー。 後の若杉一夫、関山和雄)
- おりも政夫
- 永田英二 (八田英士)
- 青山孝
- 行田和彦
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「ジューク・ボックス」を脱退後、1972年8月〜9月のミュージカル『僕がうたうとき!』にソロ名義で復帰出演。
- 内田喜郎
- 郷ひろみ
- 田中幸夫
- 葵テルヨシ (旧芸名:浅井あきら。後の葵てるよし)
- 亜井じょう
- 小坂まさる
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当初はソロタレントとして売り出されていたが、途中からグループ枠に入れられた。
次男の小坂真郷もジャニーズ事務所に入所。
- 青山信宏 (後の田村幸司)
- 森谷泰章 (一時期「森谷やすあき」や「森谷あきら」に改名)
- 団ひろし
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1974年7月にソロ歌手としてレコードデビューする予定だったが、実現する前に退所した。
- 井上純一
- 平岡洋二
- 豊川誕
- 殿ゆたか
- 未都由
- 川ア麻世
- 乃生佳之
- 赤木さとし
- 田原俊彦
- 近藤真彦
- 野村義男
- ひかる一平
- 薬丸裕英
- 東山紀之
- 柳沢超 (「忍者」消滅後に短期間ソロ活動)
- 内海光司
- 正木慎也 (「忍者」消滅後に短期間ソロ活動)
- 中村繁之
- 三好圭一
- 成田昭次
- 岡本健一
- 遠藤直人 (「忍者」消滅後に短期間ソロ活動)
- 土田一徳 (後の坂井一徳。元「劇団いろは」の子役)
- 高木延秀 (「忍者」消滅後に短期間ソロ活動)
- 中村亘利 (「NOBU」名義も併用)
- 鞆田紀世彦
- 大沢秀高 (後の藤堂右也)
- 山本淳一
- 赤坂晃
- 佐藤アツヒロ (佐藤敦啓)
- 中居正広 (中居に関する補足)
- 木村拓哉 [1]、[2]
- 稲垣吾郎
- 草g剛
- 香取慎吾
- 佐野瑞樹
- 目黒正樹 (後の仁科克基。 松方弘樹と仁科亜季子の長男)
- 大野智
- 滝沢秀明 (「タッキー&翼」解散後に3ヶ月半だけソロ活動)
- 屋良朝幸
- 櫻井翔
- 生田斗真
- 松本潤
- 二宮和也
- 相葉雅紀
- 山下智久 (元「オスカープロモーション」の子役)
[1]、
[2]、
[3]
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2019年夏より、ウィル・スミスらが代表を務めるアメリカのエンターテインメント企業「Overbrook Entertainment」(1998年設立)とも業務提携。
OE社を統括する親会社は、ウィル・スミス一家らが代表を務めるアメリカのマルチメディアカンパニー「Westbrook Inc.」(2019年7月設立)。
なお、かつてウィル・スミス一家らが代表を務めていたマネジメント会社「Westbrook Entertainment」は、2019年3月にエンターテインメント企業「Three Six Zero」に買収されている。
- 風間俊介
- 長谷川純
- 赤西仁
- 内博貴
- 浜中文一
- 中山優馬
- 林翔太
グループメンバー (Jr.以外)
- 「ジャニーズ事務所 歴代グループ」を参照。
バーチャルアイドル
ジャニーズタレントのプロデュース会社「株式会社 ジャニーズアイランド」の代表取締役社長に就任した滝沢秀明の発案によって企画がスタートし、2019年2月19日にライブ配信サービス「SHOWROOM」にてデビュー。
プロデューサーはSHOWROOMの社長・前田裕二。 キャラクターデザインはクリエイターユニット「HoneyWorks」のイラストレーター、ヤマコ。
海堂と苺谷を合わせた際の愛称は「あすかな」。
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[2]、
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[4]、
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- 海堂飛鳥 (かいどう あすか。声:関西Jr.の藤原丈一郎)
クール系の王子様キャラ。 大の野球好きで、野球の話になるとつい熱くなる。
- 苺谷星空 (いちごや かなた。声:関西Jr.の大橋和也)
やんちゃで無邪気な元気っ子。 芯は強い性格。
女性タレント
- 飯野矢住代 (女性第一号タレント)
- 嶋田じゅん (女性第ニ号タレント)
- 藤島ジュリー景子 (女性第三号タレント。後に事務所の二代目社長)
- VIP
- 河村信子
- 吉本和子
- スリー・ヤンキース
- 橋本美砂子 (スリー・ヤンキース解散後も1年ほどソロタレントとして所属)
- 川崎志津子
- 松尾貴子
- オレンジ・シスターズ
- Judy (本名:吉竹加世子)
- Sandy (本名:酒井妙。 後の麻生奈津子、あさいゆきの)
- Candy (本名:吉川聖美 (よしかわ きよみ))
- 森光子
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本名:村上美津。 1920年(大正9年)5月9日 - 2012年(平成24年)11月10日。京都市出身。B型。 92歳没。
1990年頃に一時ジャニーズ事務所と業務提携。 当時はジャニーズファミリークラブのインフォメーションダイヤルのメッセージでも、森の仕事の情報が案内されていた。
また、2010年1月6日にはシングルCD『人生革命』を、ジャニーズ事務所の自社レーベル「ジャニーズ・エンタテイメント」からリリースした。 なお、カップリング曲の『人生半ばです』は、作詞:錦織一清、コーラス:滝沢秀明、Kis-My-Ft2。
- この他にも、1960年代前半には研修生グループ「芸研ジャニーズ」の中に、大原麗子など多数の女性メンバーが存在した。
ジャニーズJr.、研修生、ゲスト参加者
- 「ジャニーズJr.一覧 (五十音検索)」
- 「ジャニーズJr. (関東組) 一覧」
- 「関西ジャニーズJr. 一覧」
- 「名古屋ジャニーズJr. 一覧」
- 「元気Jr.」
- 「研修生一覧」
- 「ゲスト参加者一覧」
の項目をそれぞれ参照。
バンド専門メンバー
- 「ジャニーズ事務所 バンド関係者一覧」を参照。
スタッフ
- 「ジャニーズ事務所 主な役員とスタッフ」を参照。
年齢を詐称していたタレント
ジャニーズ事務所に所属していた歴代のタレントの内、年齢を若く詐称しながら活動していた者を記す。
- 北公次 (2歳詐称)
- 嶋田じゅん (2歳詐称。ジャニーズ退所後も引き続き詐称)
- 板野俊雄 (1歳詐称)
- 未都由 (2歳詐称)
- 田原俊彦 (1歳詐称。所属中に詐称を公表して謝罪)
- 乃生佳之 (1歳詐称)
- 加賀八郎 (3歳詐称)
- 田代秀高 (自ら事務所に対して1歳詐称)
- 斎藤恭央 (後の桜塚やっくん。自ら事務所に対して3歳詐称)
- 渡辺智 (3歳詐称)
退所後に詐称して活動した人物
審査に合格するも辞退した人物
- 京本政樹
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本名同じ。 1959年1月21日、大阪府吹田市生まれ。高槻市育ち。 178p、61s、B型。 高槻市立柳川中学校 (生徒会長、剣道部初代主将)、大阪府立高槻南高校卒業。 多摩美術大学中退。
魚屋の息子として育つ。 1972年〜1973年頃、中学2年生の社会科見学の時に撮った写真を、同級生の女生徒がジャニーズ事務所に送った所、ジャニー喜多川から京本の家に直接電話があり、 「ジャニーだけど。フォーリーブス知ってる? 大阪フェスティバルホールに来ない?」と言われ、同会場でのジャニーズファミリー (フォーリーブス、郷ひろみなど) のコンサートに招待される。 京本は母親と共にコンサートを鑑賞し、更にジャニーに誘われてタレントたちと共に中華料理店にも行って食事をして、ジャニーの審査に合格した。
その後は、春休み、夏休みの度に東京に招かれ、ジャニーズの合宿所に宿泊していたが、正式に入所まではしていなかった。 そして、1975年2月にJOHNNYS' ジュニア・スペシャルがレコードデビューする頃には、ジャニーから特に強く誘われたが、高校ヘ進んでバンド活動にはまっていた京本は、ジャニーの誘いをきっぱりと断った。 それ以来、ジャニーから合宿所に招かれることは無くなった。
しかしその後、ジャニーズに入らなかったことを次第に後悔するようになり、かつて大阪のABCホールで公開収録が行われていた15分番組『シャボン玉プレゼント』に豊川誕がゲスト出演する度に京本は、客席に座ってリハーサルの順番待ちをしている豊川の隣の席に行き、ジャニーとの関係を仲介して貰うべく、「ジャニーさんに会わせて下さい! お願いします!」と懇願している。
結局、豊川を通してジャニーとのパイプを復活させることは出来ず、京本のジャニーズ入りは実現しなかったが、後に長男の京本大我がジャニー喜多川からスカウトされ、ジャニーズ事務所に入所している。
大我のジャニーズ入りのきっかけは、京本一家がハワイの行きつけの和食店で撮影した写真(大我と店のママさんとのツーショット写真)を、ジャニー喜多川がハワイに行った際に知人を通じて偶然目にし、京本政樹の自宅に電話をかけ、大我本人に対し、「今度KAT-TUNのコンサートを見に来てみない?」とスカウト。 そして2006年5月4日に横浜アリーナで行われたKAT-TUNのコンサートに招待されて観に行った結果、その日にいきなりステージに上げられてデビューを飾り、翌日のスポーツ新聞にも大我の記事が掲載された。
スカウトされただけの人物
ジャニー喜多川からのスカウトを受けるも、入所しなかった人物を記す。
- 大沢健三郎 (1960年代に活躍した子役。 フォーリーブスのメンバー候補にされていた)
- ポール池田 (バンド「ザ・スピリッツ」のメンバー。 大沢健三郎と同じくフォーリーブスのメンバー候補にされていた)
- 菊谷昌弘
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きくたに まさひろ。1954年6月26日生まれ。大阪市福島区出身。大阪商業大学附属高校、大阪商業大学出身。
1969年に地元の大阪にて、ジャニー喜多川より「ジューク・ボックス」の結成メンバーにならないかとスカウトされたが、父親に反対されて加入を断念した。
その後、菊谷はアイドルバンド「Jeff」のリーダー&ボーカル(愛称:ヒロ)として1974年6月25日にレコードデビュー。シングル3枚、アルバム1枚をリリースし、翌1975年4月20日に解散。 約1年の休業を経て、加瀬邦彦プロデュースによるワイルドワンズの弟分バンド「アイランズ」のボーカルに抜擢され、渡辺プロダクションに所属。 シングル『想い出の渚』で再びレコードデビューした。しかしアイランズはその後、あいざき進也のバックバンドに。
また、菊谷は沢田研二に憧れていたことから、後に「沢田雅博」の芸名でも活動。 [1]、 [2]
- 制作会社 「東阪企画」 の会長・澤田隆治 (たかはる) の息子
空港でジャニー喜多川にスカウトされた。
- 村田英次郎
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ハイ・ソサエティーの村田勝美の弟。 プロボクサーを経て、大阪府高槻市のボクシングジム「エディタウンゼントジム (株式会社 エディプロモーション)」の会長に。
- 三ツ木清隆
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劇団日本児童に所属していた子役時代にジャニー喜多川からスカウトされたことを、1989年頃にテレビ朝日『徹子の部屋』にゲスト出演した際に告白。
- ゴンパパ
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9月1日生まれ。 新宿生まれ、新宿育ち。バツイチ。
1970年代に友人の豊川誕と遊んでいた際にジャニー喜多川にスカウトされたが、入所はせず。
やがて演歌歌手としてメジャーデビューし、シングル3枚、アルバム1枚をリリースした後、高齢者を相手にしたカラオケ教室を開きながら、鎌倉エフエム『33&ゴンパパのミュージック・バラエティ』のラジオパーソナリティとなった。
2020年1月、同番組パーソナリティーの石綿芳美(女性)と共に、Twitterでフィギュアスケートの羽生結弦選手や羽生のファンに対して過激な言葉で誹謗中傷したことで批判が殺到。 複数の鎌倉市議もTwitterなどで問題視する姿勢を示し、鎌倉エフエムの株主である鎌倉市に見解を質するほどの大騒動に発展。 その結果、事態を重く見た鎌倉エフエムは、「パーソナリティー個人のTwitterによる発信とは言え、公共性の高いエフエム放送局として、到底容認できるものではありません」とし、同年2月25日に番組の打ち切りを発表した。 [1]、 [2]、 [3]
- 宮脇康之 (後の宮脇健)
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自著『ケンちゃんの101回信じてよかった』(2004年、講談社)の中で告白。
1970年代後半、高校生(堀越高校)の頃にジャニー喜多川に気に入られ、合宿所に招かれる。
そして頻繁に通うようになった宮脇は、合宿所でジャニーズタレントたちとプライベートバンドを組んだり、当時はまだジャニーズJr.だった近藤真彦や野村義男をパシリに使ったりもしていた。
しかし、ある事件をきっかけに自分の荷物を残したままで合宿所を飛び出してしまった。
その事件について本人は、「まだ言えない」と口を閉ざし続けている。
- 本田恭章
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シブがき隊と共にTBS『2年B組仙八先生』で芸能界デビューした人物。
通っていた高校もシブがき隊の3人と同じで、明治大学付属中野高等学校(定時制)だった。
- 椎野孝之
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たのきんトリオの候補メンバー。 当初は近藤真彦ではなく椎野が入ることで、「たのしいトリオ」になるという案が存在した。
椎名は『3年B組金八先生』のエキストラ出演者で、撮影現場で田原俊彦と親しくなった児童劇団所属の俳優。
東京都豊島区東長崎出身。後にバイク事故で死去。
(出典:『二丁目のジャニーズ 最終戦争篇』 原吾一 著、1996年7月、鹿砦社刊)
- 広部俊明
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1965年4月29日生まれ。世田谷区出身。A型。
世田谷区立山野小学校、渋谷区立代々木中学校、日本大学鶴ヶ丘高校、日本大学文理学部応用物理学科卒業。
1981年3月3日、代々木中学に通っていた同級生5人でバンド「HOTCAKE」を結成し、ボーカルを務める。
1982年、高校2年の2学期に、アマチュアバンドによる勝ち抜きコンテストのコーナーがあった音楽番組『踊れバンバン』(テレビ東京。司会:野村義男)に、「HOTCAKE」を率いて出場した際、ボーカルの広部だけがジャニー喜多川からスカウトされたことを自身のブログで告白。 しかし、当時はバンドでのデビューを目指していたために断った。 その後、バンド名を「夢工場」に改名し、1986年8月5日にレコードデビュー。
2011年5月5日、約2年の交際を経て、女優の羽田美智子と入籍。 2017年に離婚。 [1]、 [2]、 [3]
- ジョン・健・ヌッツォ
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テノール歌手。2004年10月22日放送のNHK『スタジオパークからこんにちは』、および同年10月25日放送のTBS『はなまるマ−ケット』にゲスト出演した際、「学生時代に弟と一緒にスカウトされた」と告白。
- 山口公次 (Kouzy)
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山口達也の7歳下の弟。 1978年7月18日生まれ。B型。
15歳の時に兄(TOKIO)のLIVEを観に行った際、ジャニー喜多川から「YOU、スケボー乗れる? CM出てよ」とスカウトされた。 しかし親が反対したため、ジャニーズに入ることは無かった (「週刊文春」2011年6月23日号にて本人が告白)。
- ウエンツ瑛士
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NHK教育『天才てれびくん』でジャニーズJr.の生田斗真、伊東亮輔の2名と共演していたことが縁で、番組卒業後の14歳の時にスカウトを受ける。 しかし、「お笑いが好きだから」という理由で断った。
なお、一時引退していたウエンツを芸能界に戻したのは、郷ひろみである。 郷とウエンツは共通の知人が居たことで出会い、当時高校1年生(15歳)だったウエンツを郷がバーニングプロダクションに所属させた。 また、郷とウエンツは出身高校も同じである (日本大学櫻丘高等学校。郷は途中で転出)。
誤報されている人物
- 森進一
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1947年11月18日生まれ。 「ジャニー喜多川が最初にマネジメントしたのは森進一。 ジャニーが森をスカウトし、渡辺プロダクションにて森をデビューさせた。
その後、アイドルグループ『ジャニーズ』を作って渡辺プロから独立した」との情報が一部で存在するが、これは全ての内容が誤りである。
森は1965年、大阪の串カツ屋で働いていた時、芸能関係の客から、アイドルグループ「ジャニーズ」の事務所が出来ていると聞き、芸能界に興味を持って上京した。 親戚の家に下宿しながら、同年、叔母に勧められて音楽番組『リズム歌合戦』(フジテレビ)に出場した結果、5週も勝ち抜く(4週説、8週説、優勝説などは全て誤報)。 その才能を、ジャニー喜多川ではなく、審査員をしていた音楽プロデューサーのチャーリー石黒に見出されて渡辺プロ所属となった。
同時に石黒の内弟子となって石黒邸の離れに住み込み、翌1966年6月20日にレコードデビュー。 そしてデビュー直後からは、四谷三丁目の3LDKの部屋にマネージャーと住むようになった。
一方、「ジャニーズ」の結成は1962年にまで遡り、森よりも早い1964年の時点で既にレコードデビューも果たしている。
時系列を見比べただけでも簡単に誤りだと分かる話なのだが、「ジャニー喜多川」と「チャーリー石黒」という少し似た語感の名前が混同されてしまい、誤報が広まっていった。 ジャニーが一番最初に手がけた芸能人は、森ではなく「ジャニーズ」である。 確かにジャニーは当初、渡辺プロと業務提携をしながら「ジャニーズ」をマネジメントしていた。 しかし、初めて手がける芸能人「ジャニーズ」を売り込むことに忙しいそんな最中に、ジャニーが森進一を手がけていた期間などは存在しない。
なお、森進一とジャニー喜多川との交流自体は、森のデビュー当時から確かにあり、後に2人は麻雀仲間となった。 更に森は2人の息子をジャニーズ事務所に入れたり、2003年にはNEWSのデビューシングルにカップリング収録されたバラード曲『ありがとう・今』の作詞を「泉らら」名義で提供。 2015年12月19日には舞台『JOHNNYS' World』にサプライズゲスト出演したりなど、ジャニーズ事務所と森進一が深い関係を保っていることは事実である。 [1]、 [2]
- 小口健二
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おぐち けんじ。 1948年生まれ。 成蹊大学卒業。
- 小口文子 - おぐち ふみこ。小口健二の年上の妻。 石野真子・いしのようこ姉妹の継母。 宝乃純(石野敦子)の生母。 フロム・ファーストの2代目社長。
- 小口欽也 - おぐち きんや。小口健二の息子。1979年12月28日生まれ。暁星国際高校、日本大学芸術学部卒業。2008年4月よりフロム・ファーストに入社。 自社ビル「(株)六番町ビレッジ」の代表取締役社長も兼務。
「ジャニーズ事務所で郷ひろみのマネージャーをしていた。 そして郷と一緒にバーニングプロダクションへ移籍した」と言われてしまうことがあるが、小口がジャニーズ事務所に勤務していたことは一度も無い。 小口は最初からバーニングの社員であり、郷をジャニーズから引き抜いた人物である。
バーニングで郷と「メッツ」をマネジメントした後、1982年3月に独立し、芸能事務所「フロム・ファーストプロダクション」を設立。 関連プロダクションとして「メンズアート」、「レディバード」、「東京シックスプロダクション」、「ACE OF HEARTS」も設立し、本木雅弘、大沢樹生、高知東生、竹中直人、高岡早紀、北村一輝など、多くの俳優、タレントを育てた。 2007年11月29日、糖尿病により逝去。 59歳没。
小口は所属俳優たちから非常に慕われていた人物で、本木雅弘も、2008年に映画『おくりびと』で日本アカデミー賞 最優秀主演男優賞を受賞した際、「授賞式では亡き小口社長の写真を懐に忍ばせておいた」とコメントしている。
家族
- 小橋賢児
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1979年8月19日生まれ。 「1994年頃にジャニー喜多川より誘いを受け、ごく短期間ながら研修生としてダンスレッスンを受けていた」と、ファンの間で長らく思われてきた。
これは当時、テレビ朝日で毎週日曜日に行われていたジャニーズJr.のダンスレッスンと同じ時刻に、テレビ局を出入りする小橋の姿が、Jr.のオリキ(おっかけファン)たちによって度々目撃されていたために生じた話であったが、後に小橋本人がTwitterにて否定した。
- 藤森慎吾
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お笑いコンビ「オリエンタルラジオ」のメンバー。 「藤森は元ジャニーズJr.」という説が一部で存在していたが、これは藤森が冗談で「昔ジャニーズJr.でした」と言っていただけであり、実際にジャニーズに居たことは一度も無い。
- 山中拓磨
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1986年生まれ。
2014年10月10日、芸能事務所「T&Mキャンパニー」を設立。 以来、みつき (旧芸名:鶴 未里)、Lys (リス)、LiD☆GATE (みつき、乙茂内梨杏、Anna、なこ)、Sun☆Spiritz (みつき、蜂椰リリー、明瀬 香)、Crera (くれ、れら。配信アプリ「LiveMe」の双子ライバー)、七里香、藤田宗一、室井瑞希、遠藤靖らをマネジメント。
(なお、T&Mキャンパニーのホームページでは山中がモノマネ芸人の桑田ます似 (後の桑田真似) もマネジメントしていることになっていたが、実際にはマネジメントしたことも、桑田からマネジメントを依頼されたことも無く、虚偽であった)
2018年春、芸能事務所「BBE」に、入社ではなく提携という形でマネージャー業を短期間務める (電撃ネットワークを担当)。
同年9月、自身が運営する芸能事務所「T&Mキャンパニー」を「TM-Factory」に改称。
2018年6月7日に光文社が運営するニュースサイト「Smart FLASH」で配信された記事 「ブサイクすぎる元ジャニーズ」 にて、 「12歳から20歳まで8年間ジャニーズJr.として歌って踊っていた」、「亀梨和也と同期」、「NEWSが結成される際に候補メンバーだった」などと紹介されているが、いずれも虚偽であり、山中がジャニーズに所属していた事実は無い。
2018年4月には、歌手の ゆゆあおい(結々葵) や、百合ヶ丘(川崎市麻生区)のライブハウス&カラオケBAR「BLACK CAT TIGER 永吉 ROCK'N ROLL HOUSE」なども、山中から寸借詐欺の被害に遭ったことをTwitterで報告している。
当サイトにも、かつて山中の側近だった人物から、
「山中には、携帯電話代金、スタジオ代金、印刷代金など、各方面の未払い問題が常にあり、ついには事務所の家賃の支払いも滞ったまま、転居をして逃亡。 一部の所属タレントやスタッフへのギャラも未払いのままで、それが原因でやむなく退社し、泣き寝入りさせられている者も居る。 その他、素人をスカウトし、その代金として、後から15万円などを要求。 テレビ出演などの仕事を最初に少しだけ与えたら、後はもう放置、といった被害者が多く出ている。 今後、新たな犠牲者が生まれないようにしたい」
と、深刻な窮状を訴えるメールが寄せられている。
2020年に都内のライブハウスにて高級腕時計やその他の物品を盗み、第三者を使って転売し、金銭を受領。 同年7月17日の朝に、窃盗罪で小金井警察署に逮捕されたという情報も寄せられた。
逸話を持つ有名人
※ ジャニーズ事務所に履歴書を送っただけの者(書類審査をパス出来なかった者)は、膨大な数に上るために省く。(長州小力、児嶋一哉、他多数)
- 江藤博利
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1958年9月5日生まれ。 「ずうとるび」のメンバーだった時に、ジャニー喜多川からスカウトされたが断ったと言われている。
- 日高富明
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ヒット曲『学生街の喫茶店』で有名なフォークグループ「GARO」の元メンバー。
愛称:トミー。 1950年2月22日生まれ。1986年9月20日に36歳の若さで自宅近くのマンションから飛び降り自殺。
豊川誕がまだジャニーズ事務所に所属していた頃、豊川は赤坂にあったディスコ「ビブロス」によく行っており、そこで出会った遊び仲間が日高だった。 そして日高は豊川を通じてジャニーズ事務所に所属しようと考え、自ら作詞作曲した曲を持ってジャニー喜多川に売り込みに行ったが、日高をジャニーズでアイドルとして売っていくには厳しかったため、不採用となった。
- 高見沢俊彦
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本名:見澤俊彦。 1954年4月17日生まれ。 ロックバンド「THE ALFEE」のメンバー。 ジャニー喜多川からスカウトされたが断ったと言われている。
- 沖田浩之
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本名:置鮎広之。 1963年1月7日 - 1999年3月27日。 36歳没。 竹の子族時代の1980年頃にジャニー喜多川からスカウトされて断ったと言われている。
- 新田純一
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本名:筒井純一。 1963年5月8日生まれ。
1981年、NHK『レッツゴーヤング』で「サンデーズ」のメンバーとしてデビューした頃にスカウトされて断ったと言われている。
- 明石家さんま
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1981年〜1982年頃、当時26歳だったさんまは、所属の吉本興業に金銭面で不満を持っており、本気で移籍を考えていた。
ちょうどその時、フジテレビのメイク室で少年隊、およびジャニー喜多川と一緒になったため、「ジャニーさん、すんません、ジャニーズに入れてくれませんかね」と頼んでみたが、「Youはダメ」と断られている。
(2019年7月13日放送のMBSラジオ『ヤングタウン土曜日』にてさんま自身が告白)
- 石橋保
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1965年9月18日生まれ。 俳優。 「ジャニー喜多川からスカウトされたが断った」という説があるが、真相や詳細は不明。
- ちーやん
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お笑いコンビ「ジャガーズ」のメンバー。 本名:大沼千文 (おおぬま ちふみ)。1976年7月8日生まれ。北海道滝川市出身。A型。滝川市立滝川第二小学校、同市立江陵中学校、北海道赤平高校卒業。
光GENJIの山本淳一のファンだったことから、小学生の時にジャニーズに履歴書を送る。 その結果、書類審査には合格したが、北海道在住で母子家庭だったため、母親に反対されてオーディションには参加しなかった。
- シュウペイ
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お笑いコンビ「ぺこぱ」のメンバー。 本名:成田秀平。1987年7月16日生まれ。横浜市出身。A型。
子供の頃からジャニーズが好きで、「ジャニーズに入りたい」と言っていたため、シュウペイが小学校4年生の時に、姉に手伝って貰いながら履歴書を書き、それを母親が送付。 その後、書類審査に合格したとの通知が来たが、当時のシュウペイはプロを目指すほどにサッカーを頑張っていたため、そっちの方を応援したかった母親は、合格したことをシュウペイに伝えず、オーディションに参加することはなかった。
- 青井一樹
あおい輝彦の長男。 1976年12月19日生まれ。 愛称:イッチャさん。 一時期俳優を目指してプロダクション尾木に籍を置いていたが、結局何の活動もしないままで引退。
この青井がジャニーズ事務所にも籍を置いていたことがあると、『渋谷センター街・発 超アイドルマル秘FILE』(ジミー 著、2001年10月、コアハウス)に記されているが、真相は不明。 [1]
- 桑原彰
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くわはら あきら。 1985年4月4日生まれ。横浜市出身。 ロックバンド「RADWIMPS」のリーダー、ギター、コーラス。 身長:166cm。血液型:A型。
神奈川県立荏田高校中退。 音楽学校 MI JAPAN 東京校ギター科卒業。 趣味:ゲーム。 好きなアーティスト:BUMP OF CHICKEN。 好きな飲み物:ポカリスエット。
学生時代にジャニーズ事務所に応募した結果、オーディションには呼ばれたが、不合格となった。 [1]、 [2]、 [3]、 [4]、 [5]
- 本郷奏多
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ほんごう かなた。 俳優。 1990年11月15日生まれ。仙台市出身。O型。
2001年、10歳の時、日本テレビ『あしたのJ』内の企画『全国 目指せ!ジャニーズJr.』の公開オーディションを受けるも、最終選考で落選した。 特技をPRする際は手品を披露した。 [1]、 [2]、 [3]
- 戸塚純貴
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とづか じゅんき。 俳優。 1992年7月22日生まれ。岩手県盛岡市出身。A型。 私立盛岡中央高校卒業。
小学3年生の時、母親が戸塚の履歴書をジャニーズ事務所に送る。 その後、書類審査に通ってオーディションを受けたが、不合格となった。
- 勇成真也
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ゆうなり しんや。 「しんやっちょ」名義で有名な動画配信者、タレント。愛称:やっちょ。本名:大原誠治。1983年2月5日生まれ。兵庫県三木市出身。A型。 三木市立自由が丘中学校卒業、兵庫県立三木東高校中退。
2002年7月13日に行われた関西Jr.のオーディションに19歳で参加し、同日にアイドル雑誌『Wink up』の取材・写真撮影も受けている。 しかし、オーディションには不合格となり、雑誌にも掲載はされなかった。 [1]
- 柳楽優弥
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やぎら ゆうや。 俳優。 1990年3月26日生まれ。東京都東大和市出身。A型。堀越高校卒業。
長瀬智也に憧れてジャニーズ事務所に履歴書を送った結果、1年後に書類審査に合格し、ジャニーズJr.オーディションの通知書が届いた。 しかし当時の柳楽は既に芸能事務所「スターダストプロモーション」に所属しており、更に主演映画『誰も知らない』(2004年公開)の撮影中だったため、ジャニーズのオーディションは辞退した。
- 洲崎貴郁
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すざき たかふみ。 お笑いコンビ「ラニーノーズ」のメンバー。 1988年5月4日生まれ。大阪府枚方市出身。
中学3年生の終わりの、2004年2月に関西Jr.のオーディションを受けるも不合格。
- 島田翼
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1996年5月18日生まれ。神奈川県出身。 ダンス&ボーカルユニット「PRIZMAX (旧名:PrizmaX)」のメンバー。
血液型:A型。 クォーター (祖父がフランス人)。
2004年8月12日に、テレビ東京のバラエティ番組『Ya-Ya-yah』内で行われたジャニーズJr.の公開オーディションに参加したが、不合格となった。 [1]、 [2]
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